97:大切 (忍足と宍戸)
 
 
 がたん、と何かの倒れるような音が響き、忍足は目を覚ました。
 充電中の携帯を開くと、まだ真夜中といっていい時刻を示している。
 忍足の住むアパートは駅前にあるおかげで、時折玄関の前で酔っぱらいが暴れ回っていることがあった。
 今日もそれだろうかと、忍足は外の気配を窺う。
 こつん、と何かが扉に当たる音がして、それから微かに人の声。
「……忍足……」
「!」
 自分の名を呼ぶその声に、忍足は聞き覚えがあった。
 慌てて飛び起きると、玄関の鍵を開けて訪問者を迎え入れる。
「どないしたん? お前がこんな時間に来よるなんて、珍しい」
「ちょっと、ドジっちまって、な」
「宍戸?」
 その、いつになく弱々しい声音に、嫌な予感がした。
 まだ電気を消したままだったことに気づいて、手探りでボタンを捜す。
 途端に明るくなった視界に、忍足は瞬きを繰り返した。
 枕元に手を伸ばし、眼鏡をかけて宍戸を振り返る。
 宍戸は、こんな時間だというのに家に戻らなかったのか、まだ制服のままだった。
 その青ざめた顔色に、忍足は咄嗟に手を伸ばして──振り払われる。
「あ、悪い……」
「いや、ええけど。宍戸、なんや顔色悪いで? 具合悪いんなら、寝とくか?」
 あいにく客用の布団など置いていないため、寝るとしたら忍足が先ほどまで寝ていたベッドしかない。
 それでいいかと聞こうとしたとき、何かの匂いが鼻を掠めた。
 なんだか、血なまぐさいような。
「宍戸、どっか怪我してるん? ドジったって、喧嘩でも……」
「……風呂、貸して」
「ああ……」
 宍戸は踵を返すと、洗面所へ消えていった。
 部屋に残された忍足は、呆然と立ちつくす。
「あれ……」
 顔色の悪さに気をとられ、今の今まで気づけなかったが。
 ベストの下の、宍戸のシャツにはボタンがついてなかった。
 まるで、千切られたかのように。
 がんがんと、頭の中で大きな音が鳴り響いている気がする。
 どうしたらよいのだろう。
 こんな事態は、全く予想していなかった。
 忍足は頭を抱えながらも、宍戸を一人にしてはいけないと思う。
 宍戸は自分を頼ってきてくれたのだ。
 それは、もしかすると他に一人暮らしの友人がいなかったからかも知れない。
 それでも、今宍戸のそばにいるのは、紛れもない自分なのだ。
 その思いが、忍足の足を浴室へ向かわせた。
 
 
 
 
「宍戸、入るで」
「忍足……!?」
 まさか中に入ってくるとは思わなかったのだろう、宍戸の慌てる気配がした。
 忍足は気に留めない素振りで、無理矢理中へ入る。
「俺が洗ったるわ」
「忍足、……」
「大丈夫。俺メガネしとらんと、なんも見えへんし」
 そう言って笑ってみせると、宍戸はようやく肩の力を抜いたようだ。
 ぼやける視界の中、スポンジを取って洗ってやる。
 くすぐったい、と宍戸が笑った。

 
 
 
 濡れたままの宍戸の頭をタオルで拭ってやると、忍足はミルクを温め始める。
 キッチンに向かったため、宍戸に背を向ける形になった。
 宍戸は、大人しくベッドに腰掛けている。
 宍戸のシャツは薄汚れ、ボタンが殆どなくなってしまっていたため、忍足の服を貸してやった。
 サイズが少し大きいようで、首まわりが大きくあいてしまっている。
 そこから、赤黒いあざが幾つものぞいていた。
 日に焼けた健康的な肌に、そこだけが浮いて見える。
 意図的でないとはいえ、見てしまったことを忍足は悔いた。
「これ飲んで、大人しく寝とき?」
「ホットミルクって、ガキじゃねえんだから」
「ええやん、たまには」
 湯気の立つマグカップを受け取ると、宍戸は静かに口づける。
 その喉が上下するのを見て、忍足は口を開いた。
 ずっと、心に引っかかっていたこと。
 宍戸にそんなことをする可能性がある相手を、忍足は一人だけ知っていた。
「……跡部、か?」
 普段何とも思っていない振りをしながら、その実尋常ではない程宍戸に執着していた。
 あの男なら、やりかねない。
 そう思って口にした忍足の言葉を、だが宍戸は否定した。
「それなら、良かったんだけどな」
 そう自嘲する、宍戸の口調から。
 宍戸の、表情から。
 忍足は、悟ってしまった。
 
 
 執着していたのは、跡部だけではなかったことを。
「待ってたんだ、あいつが言ってくるのを」
「宍戸……」
「待ってるだけだったから、罰が当たったのかな」
「そんなわけない! 宍戸、なんも悪いことしてへんやん!」
 自分を責めるな、と忍足は宍戸を抱きしめた。
 震える身体を宥めるように、優しく背中をさする。
 暫く抵抗するような素振りを見せていたが、やがて宍戸の手が忍足の服を掴んだ。
「……あいつには、言うなよ」
 あいつ、というのが誰を指しているのか。
 わかりすぎるぐらいにわかって、忍足は胸を痛めた。
 それは、決して宍戸の自己保身のためではなく。
 もしもこんなことが知られたら、あの男は何をするかわからなかったから。
「お前のためなら、軽く人の一人や二人殺りそうやもんな、あいつ」
「シャレにならねーこと、言うんじゃねえ」
 もごもごと、宍戸が口の中で呟いた。

 
 
 
 大切に大切に、慈しんでいたから。
 大切すぎて、何も出来ずにいたから。
 だから、こんな目に遭わせてしまったのだと。
 
 
 そんな風にだけは、思わせたくなかった。
 
 
 
 【完】
 
 
 
 
2003 11/25 あとがき