それはすてきな愛の歌(跡部と宍戸とジロー)


 予定よりも到着が遅れてしまった。宍戸は、焦りながら廊下を走る。跡部の部屋は、突き当たりの扉だった。
 ノックを数回、扉を開け放つ。
 あらかじめ予定していたかのように、窓際で跡部が振り向いた。


「ずいぶんと遅かったじゃねえか」
「悪い」
 言い訳せずに謝ると、跡部に目を細められる。
「そんなに楽しかったのか。誕生会とやらは」
「あ? ああ、まあな」
 跡部が誕生日会のことをなぜ知っているのかと一瞬目を見開き、まあ跡部だからなと納得した。跡部は何故か、宍戸のことを宍戸自身よりも把握している。
 窓辺に佇む跡部に、なんだか胸が痛んで宍戸はゆっくりと近づいた。
 まったく、この男はきれいな顔をしている。何度見ても、飽きることはなかった。
 日本人離れした青い目に見つめられると、自然と胸が高鳴る。この目に自分だけを映して欲しいと、願ってしまう。
「宍戸」
 名前を呼ばれただけで、こんなに苦しくなるのはこの男だけだ。眉根を寄せた宍戸に、跡部が手を伸ばしてきた。
 長い指で頬を撫でられ、くすぐったさに目を閉じる。と、まぶたに口づけられた。
「いいのかよ?」
 からかうような声音で訊ねられる。意味がわからず、宍戸は首を傾げた。
「そんな無防備に目を閉じて、だよ。何されても文句言うんじゃねえぞ」
 耳元で囁かれ、宍戸は大きく後退する。跡部が、おもしろそうに笑っていた。
「お前なあ……!」
「なんだ? なんか文句でもあるのか」
 偉そうにふんぞりかえりながら、跡部がわざとらしく片眉をあげる。
「ああ、ジローがいるからか?」
「!!」
 あまりの静かさにジローの存在を失念していた宍戸は、慌てて室内を見渡した。見慣れた金色の頭が、ソファーに転がっている。
「……寝てんのか?」
「てめえが遅いからだろう」
「悪かったって」
「お前が来るまで起きてるっつってたんだけどな」
 ジローにしては頑張っていたらしい、申し訳ない気持ちで宍戸はすっかり寝入っているジローの頭を撫でた。
 ジローが、気持ちよさそうに足を伸ばす。
「何か食べるか?」
「あー、いや、いいや」
 食べてきたと言うと、跡部はそうかと頷いた。
「それじゃ、俺様からのプレゼントを受け取ってもらおうか?」
「あ、ああ……」
 跡部がピアノの前に腰掛けるのを見て、宍戸は逃げ出したい気分に陥る。
 だが逃げるわけにもいかず、仕方なくジローを起こさないよう気をつけながらソファーの端に座った。
 それが合図のように、跡部が鍵盤へ手を伸ばした。


 跡部の奏でる音色を聴きながら、宍戸は既に後悔していた。
 跡部から毎年贈られるプレゼントは、宍戸では到底手に入れられないような高価なものや貴重な品ばかりだった。
 とうとう嬉しさよりも負担が勝って、今年は何もいらないと告げた。
 しかし跡部がそれで納得するはずもなく、では物のかわりにピアノを弾いてやろうと言いだしたのだ。曰く、俺様が心を込めて弾いてやるんだ、ありがたく思いやがれと。
 だが、宍戸はクラシックなど授業でしか聴いたことがないし、それだってまともに起きていられた試しはなかった。
 跡部の弾くピアノでは、寝たが最後どんな仕打ちを受けるかわかったものではない。
 憂鬱な気分で、宍戸はピアノに耳を傾けた。


 一曲目が終わったところで、宍戸はすでに瀕死だった。このままでは身がもたないと、跡部に声をかける。
「あ、跡部、ちょっと待て」
「なんだ?」
 少しだけ不機嫌そうに、跡部が手を止めた。
「のど乾いた」
「勝手に飲めばいいだろう」
 使用人が用意してくれた紅茶はまだポットいっぱい残っていたし、備え付けの冷蔵庫に他の飲み物が入っていることは宍戸だって知っている。ただ、時間を稼ぎたかっただけだ。
「跡部は? なんか飲まねえ?」
「やけに親切じゃねえか……」
 言葉を切ると、跡部はじっと宍戸を見つめてくる。何もかも見透かすような視線に、宍戸は動きを止めた。
「な、なんだよ」
「てめえ、まさか」
 跡部は立ち上がると、つかつかと宍戸の目の前までやってくる。上から見下ろしながら、跡部が端正な顔をゆがめた。
「俺様のピアノを聴くのがいやだっつーんじゃねえだろうなあ」
 ばれた、と宍戸は顔を青くした。


「ち、ちげーって! いやっつーか、なんかつらいっつーか」
「つらい?」
 目を剥いた跡部に、違うと慌てて顔の前で手を振る。そういうんじゃなくて、と視線を泳がせた。
 寝息とともに揺れる金糸に、ジローは呑気でいいなあと羨ましく思う。
「……お前のピアノ、聴いてると苦しくなるんだ。なんか、心臓がぎゅうってなって、苦しくて苦しくて、つらい」
 宍戸が跡部のピアノを苦手としている理由は、これだった。
 幼い頃から、跡部はたびたび宍戸にピアノを聴かせようとした。昔は退屈なだけだったそれが、いつしか苦痛をともなうようになっていったのだ。
 せっかく弾いてくれているのにこんなことを言ってはいけないと、今までひた隠しにしてきたのだが。
 とうとう、口にしてしまった。
 跡部はいま、どんな顔をしているだろう。傷ついているだろうか、怒っているだろうか。
 怖くて顔が上げられない。
 しばらくの沈黙の後、聞こえてきたのは笑い声だった。


 跡部が、高らかに笑い声をあげている。
 呆然と宍戸は笑う跡部を見上げた。視線に気づき、跡部が笑みを消す。
「上等じゃねえか」
 跡部の手が伸ばされて、やはり怒らせたのかと身構えると、その手は宍戸の脇をすり抜けソファーへたどり着いた。
「跡部……?」
「俺様のピアノを聴くと、苦しくてつらいだと?」
 青い双眸に睨まれ、宍戸は言葉を失う。
「当然だろ」
「……は?」
 思わず、宍戸は間抜けな言葉を発してしまった。
 跡部が今度はとびきり鮮やかな笑みを浮かべる。なんてきれいなのだろうと、宍戸は状況も忘れて見とれてしまった。
「俺様のピアノには、たっぷりと込められてんだぜ。宍戸、てめーへの愛情がな」
「…………」
 目の前の男は、一体なにを言っているのだろう。とうとう狂ってしまったのかと、宍戸は不安になった。
「俺様の想いを、ピアノに託して弾いてやってんだ。まさか、鈍いてめーに伝わるとまでは思ってなかったけどよ」
「誰が鈍いだと!?」
 悪口にだけは敏感に反応した宍戸の額を、跡部の指がはじく。
「だから、上等だって言ってやってんじゃねえか」
 俺様からの贈り物だ、ありがたく思いな。
 言葉と同時に、唇が降りてきて。宍戸は、ようやく跡部の言葉を理解した。


 その後、そろそろ起きてもいーい?とジローに声をかけられるまで、なにをしていたかは二人だけの秘密。


【完】


2005 09/29 あとがき