『僕に飼われてみませんか』―おまけ「誕生日」
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雛形篤(ひながた・あつし/17歳)×真幟蛍(まのぼり・けい/20歳)


 

 今年の秋は短くて、夏からそのまま冬になったようだった。その分夏は永かった。永い夏の間に、俺は恋をした。

 

   *

 

 静かな朝だった。蛍さんを起こさないように寝室を出てリビングに行くと、ルーフバルコニーには五センチほどの積雪があった。昇ったばかりの朝陽にキラキラ輝いている。
 思わず歓声を上げて、バルコニーに出る。雪を見るとテンションが上がるのは、まだまだ子どもという証拠か。冷たい風に、息が白く凍る。この冬最初の雪はさらさらのパウダースノウで、サンダルで踏むときゅっと音を立てた。
 じきに冬休みになるが、蛍さんは年末年始を実家で過ごすことになっているし、俺は年明けの大会に向けて練習一色の生活になる。ゆっくり会えるのは、年が明けてしばらくしてからになるだろう。俺の両親は父の仕事の関係で北海道で暮らしている。八つ違いの兄は仕事だテニスだと休日も家にいないことが多い。咎める人間がいないのをいいことに週末は蛍さんのマンションに入り浸っていた。遊んでばかりじゃなくて、もちろん勉強もしている。蛍さんのおかげで無理だと諦めていたW大にも手が届きそうで、両親に報告するとカニが送られてきた。
「ヒナくん」
 リビングから蛍さんが顔を出す。
「おはよう蛍さん。見て、こんなに積もってる。雪だるま作ろうよ」
「ヒナくん……寒くないの」
 唖然としている蛍さんに指摘されるまで、上半身裸であることを忘れていた。下はパジャマのズボンだけで、素足だ。ベッドではパジャマの上に袖を通しただけの格好だった蛍さんは、もうちゃんと身支度を済ませている。
「……寒い」
 急に寒さが骨まで染みてきて、俺は自分の腕を抱き背中を丸めて室内に逃げ込んだ。そのまま蛍さんに抱きつく。
「やだ、冷たいよ」
 鼻先で蛍さんの首筋をくすぐると、蛍さんは笑いながら悲鳴を上げる。
 真幟蛍さんは俺より三つ年上の大学生だ。小柄でパッと見だと高校生どころか中学生に間違われそうなかわいらしい童顔なのに、こぼれそうに大きな目は妙に色っぽい。よく見るとわずかに眦の下がったその目に見つめられると、出会って五カ月近く経つというのに未だに動揺してしまう。
 熱いシャワーで身体をあたためて、朝食の支度をする。包丁を握ったことすらなかった蛍さんは、特訓の甲斐あって今では交替で食事当番ができるほどになった。
 食事をしている間に陽は高くなったが、気温が低いのでしばらくは溶けないだろう。
「これから下に行って、小石拾ってくる」
「小石?」
「雪だるまの目にするんだよ」
 はしゃぐ俺とは対照的に、蛍さんは浮かない顔だ。
「どうしたの。雪嫌い?」
「雪にさわると熱が出るよ」
 ……熱?
 聞けば、蛍さんは小さい頃から祖母にそう言われていたという。
「じゃあ、雪遊びしたことないの?」
「うん」
「そういえば俺、雪の中泳いだことあるけど、熱なんて出なかったよ」
「寒中水泳?」
「違う違う。雪の中を泳いだんだ」
 小学校に入学した年だったか、ランドセルを背負ったまま、校庭の日陰に積もったふかふかの雪に飛び込んだ。平泳ぎだクロールだとチャイムが鳴るまで暴れまくって、雪まみれで教室に入ると暖房で雪が溶けてびしょ濡れになった。俺に触発されて同じように泳いだクラスメイト共々、着替えてきなさいと家に帰された。着替えて熱いおしるこを飲みながら母にガミガミ叱られてから、学校に戻った。
「ヒナくんて、むちゃな子どもだったんだね」
 感心と呆れているの中間くらいの顔で、蛍さんは呟いた。
「雪だるま作ったら、二人でお風呂入ろう。そうしたら風邪ひかないだろ?」
 にっこり笑った俺に、蛍さんは苦笑で応えた。
「ヒナくんとお風呂に入るとのぼせるから嫌だよ」
「のぼせるようなことしないからさぁ」
「嘘ばっかり」
 蛍さんはくすくす笑う。
「石探すついでにさ、どのくらい積もってるか近所見て回ろうか」
 いそいそとダウンジャケットを着込みマフラーを巻く。蛍さんもボアのついたコートとニットの帽子で防寒した。
「それ新しい帽子? かわいいね」
「ありがとう」
 クリーム色と明るい茶色のストライプの帽子には耳当てがついていて、その先からは毛糸の三つ編みが肩に垂れている。帽子はあるのに、蛍さんは素手だった。手袋を持っていないという。俺が自分のを外して差し出すと、蛍さんは困った顔をした。
「僕には大きいから、落としちゃうよ」
「いいよ、落としても」
「よくない」
「じゃあさ、手袋買いに行こっか。帽子とお揃いにしたら? どこで買ったの」
「これは、貰い物だから」
「へぇ。おばあさん?」
 蛍さんは一瞬だけ口ごもった。
「伊織さんがくれた」
 今度は俺の口が強ばる。
「……なんで、三鷹さんが」
「誕生日だったから」
「誕生日って、蛍さんの? いつ?」
「先週の土曜」
 さらりと言われて、恋人の誕生日が知らないうちに過ぎてしまったことに愕然とした。俺は誕生日とか記念日とかのイベント事が、けっこう好きなのだ。
「蛍さんて、夏生まれじゃなかったの」
「どうして?」
 ……だって、蛍だし。
 かわいらしく小首を傾げていた蛍さんは、俺の言いたいことに気づいてちょっと眉を下げる。
「母が夏生まれなんだよ」
 蛍さんが生まれて間もなく亡くなった母親の名前は真幟ほたる。蛍さんは小さい頃、祖母に「ほたるちゃん」と呼ばれていた。
「訊かなかった俺も悪いけど、どうして言ってくれなかったんだよ。俺だってプレゼントしたかった」
 ふくれる俺に、蛍さんはささやくような声で言った。
「プレゼント、くれたよ。あの日はずっと一緒にいてくれただろ」
 たしかに先週の土曜日、一日蛍さんの室で……ベッドの上で過ごした。思い出してみれば、あの日の蛍さんはいつもより俺に甘えてきた。いい天気だし外に遊びに行こうかと誘っても首を振るばかりで、俺が初めてここを訪れた日のように、ずっと手を繋いでいた。
 他の誰でもなく、俺と過ごしたいと思ってくれたことはうれしい。けど――
 蛍さんによく似合ってる、ニットの帽子。
 三鷹は蛍さんの誕生日を祝ったんだ。俺は知らなかったのに。蛍さんの恋人は俺なのに。

 

 石を拾ってきたものの、雪だるまを作る気にはなれなかった。室に戻ると蛍さんを寝室に誘った。ゆうべは遅かったし、まだ午前中だと戸惑う蛍さんを、背後から抱きしめる。耳朶を舐めると蛍さんの身体はぶるっと震えて、肩から力が抜けた。
 俺の腕の中で、蛍さんはぐるりと身体を回転させる。俺を見上げる目は、深夜の星空みたいにきれいだ。セーターの中に手を入れてシャツ越しに身体にふれると、蛍さんは小さく息をついて目を伏せる。
「ヒナくん……」
「なに?」
「……なんでもない」
 外を歩いてすっかり冷えた手に、蛍さんの肌は熱い。蛍さんを立たせたまま、足元に膝をつく。手を上げセーターとシャツを捲って指先で乳首を撫でながら、尖った腰骨にキスをする。
「あ……」
 立ち上がりかけていた乳首はすぐに固くなって、蛍さんの脚が震えた。
 ファスナーを下ろして、下着の上からキスをする。もう兆しているのを唇で確かめた。逃げられないようにしっかり腰を抱いて、ため息混じりの細い声がすすり泣きに変わり、ベッドに連れていってと自分からねだるまで、布越しのもどかしい愛撫を続けた。
「ヒナくん……おねがい」
 崩れそうな身体を支えて立ち上がり、抱きあったままベッドに移動する。掛布の上でキスをしながら、服を脱がせあった。蛍さんの指からはすっかり力が抜けていて、俺は蛍さんを脱がせると後は自分で脱いだ。
 性器を擦り合わせるように腰を動かしながら、指で固くした乳首を今度は舌で愛しむ。
「蛍さん、これ好きだよね。ここ、こんなふうにされるの好きだよね」
 朦朧としたまま、蛍さんは首肯く。
「お風呂じゃなくても、蛍さんすぐのぼせちゃうね」
 蛍さんの腰が、ねだるように揺れる。いつまでも焦らしていると、蛍さんは俺の手を取って、指を口に含んだ。もう欲しいという合図だ。我慢できなくなると、蛍さんは俺の指を舐める。まったく無意識の行動なようで、指摘すればきっと、恥ずかしがってやめてしまう。だから俺も気づかないふりをする。
 蛍さんが濡らした指で、脚の奥を探る。ローションの助けも借りて、深く進む。指にしろ違うものにしろ、入ってくる感覚に、いつまでも慣れないと蛍さんは言う。だが奥まで収まってしまうと、蛍さんの吐息は熱くなる。
「ん……ん……」
「気持ちいい?」
 蛍さんは俺をきつく抱きしめて、何度も首肯く。かわいい人。頬を擦り合わせ、鼻先で耳をくすぐる。蛍さんの意識が耳にいっている間に、小さいお尻を両手で抱えて、指ではないものを深く埋め込んでいく。
「あ……」
「蛍さん、ねえ、俺とするの好き? ……俺のこと、好き?」
 激しく動きながら、何度もそう訊いた気がする。けれど蛍さんがなんと答えたのかは、どうしても聞き取れなかった。
 抱きあったまま微睡んで、気がつくと蛍さんがベッドにいない。独りのベッドから、薄暗い寝室を見渡す。ドアが細く開いていて、ペンで引いたような明かりが床に伸びていた。
 物音などしなくても、蛍さんが続き部屋で何をしているのかわかる。このまま待っていれば、蛍さんはベッドに戻ってくる。それもわかっていた。だが足はラグを踏み、フローリングを歩いて、俺はドアの前に立っていた。指一本分ほど開いていたドアは、掌でふれると音もなく動いた。
 夏の間にベッドの中央から寝室の壁際に居場所を移したクマは、今では続き部屋に置いた一人掛けのソファに座っている。蛍さんは俺のシャツを羽織ったきりの姿で、クマの前に立っていた。見るまでもなく、わかっていたことだ。うなだれるようにうつむいて、ゆっくりとクマの耳を撫でている。俺がベッドで乱した髪から覗くうなじが白い。
(……なんでもない)
 あの時、蛍さんが何を言いたかったのか、わかっていた。蛍さんは俺が気を悪くしたことに気づいていた。だから不安なんだ。不安で、クマに縋っている。クマに救いを求めている。三鷹が蛍さんにクマを与えてからずっとそうだったように。
 俺がダメならクマか。
 我ながら自虐的な考えだ。クマにヤキモチ焼いてもしかたないのに。
 そう……クマにヤキモチを焼いてもしかたがない。
 クマは蛍さんを慰めることはできない。
 抱きあって、息も絶え絶えになるほど愛し合ったりできない。
 クマだって、
 三鷹だって。
 それなのにどうして俺は、こんなに苦しいんだろう。

   *

 次の金曜、兄の在宅を口実に、蛍さんのマンションには行かなかった。口実ができてほっとしていた。嫉妬に振り回される自分が嫌だし、俺のガキっぽいヤキモチで蛍さんが罪悪感を持つのはもっと嫌だった。
 自分の狭量さが恥ずかしくて頬が火照る。蛍さんはもう、三鷹に恋愛感情を持ってはいない。そんなこと知っているのに、嫉妬してしまう。
 蛍さんにとっては三鷹伊織は特別な人間だ。初恋の人。十五歳だった蛍さん。抱擁の代わりに与えられたクマ。三鷹の隣で過ごした永い夜。愛されたかった蛍さん。寂しかった蛍さん。
 夕飯の片付けをしているとインターホンが鳴った。モニターに映る三鷹の姿にぎょっとする。何しに来たんだ。兄からは三鷹が来るなんて話は聞いていない。しかし無視するわけにもいかず、渋々ドアを開ける。
「……どうぞ。兄は今風呂に入ってます」
「今日は君に会いに来たんだ」
「俺ですか」
「ああ」
 俺の困惑を余所に、三鷹は相変わらずのさわやかな笑顔を見せる。
 リビングに通して……紅茶はないので緑茶を出す。三鷹はコーヒーは飲まない。蛍さんのことを抜きにしても、相変わらず俺は三鷹が苦手だ。けして悪い人間ではないとわかっていても、やはり苦手だ。きっと根本から合わないのだと思う。ソファの、三鷹が座った位置から離れた場所に腰を落ろす。三鷹といると、なんとなく調子が狂う。それは初めて蛍さんに会った頃の感覚に、すこし似ている。
「佳也子さんお元気ですか」
「このところ美佳の夜泣きがひどくて、すこしバテてるよ。交替で起きてはいるんだが、やはり佳也子の負担のほうが大きいからね。僕が美佳を見ていられる休日以外は外出もままならないから、今は気晴らしにおかしを作ってるよ」
 美佳ちゃんは先日生まれた三鷹の第一子だ。出産前からその兆候はあったが、三鷹はかなりの親バカだ。
「落ちついたら招待するから、蛍と遊びにおいで」
 三鷹は上着の内ポケットから手帳を取り出した。しかし手帳だと思ったそれはミニアルバムで、当然中はすべて愛妻と愛娘の写真で埋めつくされている。顔立ちのはっきりしてきた赤ん坊は、目元が佳也子さんに似ている気がする。父母どちらに似ても美人になることは間違いないだろう。
 写真を見ながらそんな感想を述べると、三鷹は上機嫌で美佳ちゃんの様子を話し続けた。最初は沈黙が続くよりいいと思ったが、すぐに後悔した。微笑ましい話ではあるのだが……リアクションに困る。
 いつの間にか風呂から出てきた兄が、そんな様子を肴に缶ビールを傾け始める。助け舟を出す気はさらさらないようなので、俺のほうから舟に手を伸ばす。
「アニキ、なんか食べる?」
「冷や奴。ポン酢で」
「わかった」
 三鷹が話を再開させる前にそそくさと台所に逃げ込んだ。新しい缶ビールとグラス、冷や奴をゆっくり支度してリビングに戻る。三鷹のターゲットが兄に移っていますように。
「あの、三鷹さんも飲まれますか」
「ありがとう。けど遠慮するよ。車だし、帰ったら美佳を風呂に入れなくちゃならないんだ。風呂は僕の担当なんだが、これがけっこう難しくてね」
 ……しまった。自分から話題を振ってしまった。
 乳児を風呂に入れるコツをひとしきりを語った後、三鷹はやっと本題を思い出したらしい。「忘れるところだった」と手にした紙袋からニットの帽子を取り出した。白と茶の毛糸で編まれた、耳当てのついた帽子だ。
「今日はこれを渡すために来たんだ」
「それ……三鷹さんが蛍さんにプレゼントした帽子でしょ」
 憮然とする俺に、三鷹はにっこり微笑んだ。
「同じものだよ。これはヒナくんに」
 背後で、兄が声を出さずに爆笑する気配を感じた。
「――なんすか、その……ヒナくんて」
「蛍がそう呼んでるだろ。うちでも君のことを話すときは、二人ともヒナくんて呼んでいるよ」
「二人って、佳也子さんもですか」
「もちろん」
 美佳はまだ話せないからねと、三鷹は白い歯を見せて笑う。
「……ヒナくんて呼びたいなら、アニキのこと呼べばいいでしょ」
 三鷹と佳也子さんはもともと兄の友人だ。だが三鷹は不満そうな顔をする。
「雛形はヒナくんて感じじゃないよ」
「俺はヒナくんて感じなんですか」
「似合ってるよ。蛍はセンスがいい」
 三鷹は笑顔のまま、「遅くなると美佳の寝る時間がズレるから」と帰って行った。笑い過ぎてビール缶を握ったまま呼吸困難に陥っている兄を置いて、俺も外へ出る。
 三鷹の後を追う形になって、一緒にエレベーターに乗り込んだ。
「蛍のところに行くのかい?」
 二人きりになるといろんな感情が吹き出してきて、返事が出てこない。三鷹は気分を害した様子もなく、微笑んだままだ。
 エレベーターのドアが開くと、エントランスは底冷えしている。また雪が降り始めていた。
「今週も雪の休日になりそうだね。車で送ろうか?」
「……いえ」
 三鷹が立ち去る気配がないので、うつむいていた俺はのろのろと目を上げる。三鷹は雪に降られたままじっと俺を見ていた。
「……蛍さん、三鷹さんに話したんですか」
 俺があの帽子を見て不機嫌になったこと。
 三鷹に知られたことが、たまらなく恥ずかしい。
「帽子を返しにきたんだよ。蛍は何も言わなかったけど、僕が無理やり訊き出した。プレゼントを突き返される覚えはなかったからね」
「返しに……」
「君の目の届かない場所に隠すとか、僕に黙って捨てるとか、そういうことのできない子なんだ。僕が言うも何だけど……不器用な子だから」
 蛍さんのことを話すとき、三鷹は生まれたばかりの愛娘の話をするときと同じ目をする。
「蛍はまだ慣れてないから、もうすこしゆっくり進んでやってくれないか」
 俺の返事を待たずに、三鷹は去っていった。駐車場に向かうその後ろ姿を、ぼんやりと見送る。
 蛍さんと三鷹には、似たところがある。佳也子さんはきっとゆっくりと、永い時間をかけて三鷹との関係を育んだのだろう。
 夏の終わりに蛍さんがくれたカードキーで正門ゲートを開ける。室の鍵も一緒に渡されたけど、インターホンを鳴らして蛍さんに開けてもらった。突然の訪問に驚きながらも、蛍さんは笑顔で迎えてくれる。
「来るの明日って言ってたのに」
「うん、ごめん」
「ちょうどよかった。来て。明日じゃ待ちきれなくて、携帯で画像送ろうかって思ってたところなんだ」
 いつものように手を取られて……蛍さんの手の冷たさにぎょっとした。
「どうしたの!」
「え、なに?」
「手だよ! こんなに冷たくて、濡れてるじゃないか」
 よく見ると、髪や肩にも水滴がついている。玄関の照明にキラキラと光っていた。
「水でも被ったの?」
 蛍さんはいたずらっぽく笑って、俺の手を引いてリビングに入った。蛍さんが掃き出し窓を開けると、雪混じりの冷たい風が室内に吹き込む。
 屈み込んで何かを手に乗せた蛍さんが振り向く。蛍さんの手の上には、全長三十センチほど雪だるま。目は黒くてすべすべした石で、鼻は細長い石を使っているから、思慮深そうな顔立ちになっている。どらも先週、二人で拾った石だ。
「この前、ヒナくん雪だるま作らずに帰ったから」
「手袋なしで作ったの」
「ん……」
 蛍さんは雪だるまに目を落としたまま、おずおずと言う。
「あのね……さ、寒いから、一緒にお風呂入ろうか」
「いつも嫌がるのに、急にどうしたの」
「……のぼせてもいいよ」
 仲直りするきっかけにしたいのだとわかって、俺は苦笑した。蛍さんは全然悪くないのに。
「ヒナくん……ごめんね」
「蛍さん」
「僕……誕生日言わなきゃいけないって、知らなかったんだ」
「違うよ、蛍さんのせいじゃない」
「こういうこと何も知らなくて、ごめんね」
「謝ることなんてないんだ。俺が勝手にヤキモチ焼いただけなんだから」
「誕生日のお祝いとかしたことなかったから、よくわからなくて」
「……お祝いしたことないって、なんで」
 蛍さんの話を聞く限り、祖父はともかく、祖母は誕生日とか派手に祝いそうなイメージだったのに、意外だ。
「あのね、お父さんがおじいさまのところに僕を連れてきた時、これまでどこに住んでいたとか誕生日とかそういう話全然しなくて、お母さんが亡くなったことだけ話すと、僕を置いてふらりと消えちゃったんだって。おじいさまが手を尽くしてお母さんのお墓と僕が生まれた病院を探したんだ。誕生日もそれでわかって、だから、あまり思い出したくなかったんだと思う」
 蛍さんは幼稚園に通うようになるまで、誕生日という言葉を知らなかったという。
 祖父母にとって、孫の誕生と一人娘の死は、あまりにも近すぎた。
「伊織さんにその話をしてから、毎年誕生日にプレゼントをくれて……だから、習慣になってた」
 そんな話、俺にはしてくれなかった。
 けど、話せなかった理由もわかった。
 蛍さんは、自分の誕生日をよくない日だと思ってるんだ。
 蛍さんの中にはとても柔らかくて弱い部分があって、その部分に関して、蛍さんはとても臆病だ。全部知って好きになった。
「……帽子、もう使わない」
「そんなこと言わないで。すごく似合ってた」
「でも、ヒナくん」
「これ見て」
 三鷹がくれた帽子を、ひょいと被る。
「それ……同じ」
「そう。同じやつ、さっき三鷹さんにもらった。お揃いだよ」
「お揃い……」
「明日、この帽子に似合う手袋買いに行こう。俺にプレゼントさせて」
 こくんと首肯いた蛍さんの目の中で、リビングの照明がきらめいた。
「三鷹さんにお礼言うの忘れたな」
「ヒナくんて、伊織さんと仲いいよね」
 思いがけないことを言われて面食らった。どこをどう見れば、俺と三鷹の仲がいいなんて思うんだ。訝るような視線を向けてくる蛍さんを呆然と見返す。
「だって、伊織さん、ヒナくんといると楽しそうだし」
 それは……俺のことからかうのが楽しいんだと思うよ。
「ヒナくん夏に、僕に内緒で伊織さんのうちに行っただろ。……知ってるんだから」
 俺が声を上げて笑い出したので、蛍さんは驚いて目を丸くした。
「ヒナくん……」
 そうだった。蛍さんて、けっこう独占欲がつよいんだ。ヤキモチ焼きは俺だけじゃないとわかってほっとした。
 笑いすぎて目尻に滲んだ涙を拭いながら、息を整える。まだ冷たい蛍さんの手を握った。
「俺はこれからもつまらないことでヤキモチ焼くと思う。けどその時は、蛍さんが俺のこと大好きだってこと思い出すよ」
 わけのわからない様子のまま、蛍さんは首肯く。俺はすこし屈んで、蛍さんの目を覗く。眦のすこし下がった大きな目。凪の水面のように澄んで、深夜の空のように深い瞳。大好きな蛍さん。
「蛍さんのお父さんとお母さんが、蛍さんをこの世に生んでくれてよかった。おじいさんとおばあさんが、蛍さんを育ててくれてよかった。蛍さんが、今ここにいてくれてよかった。俺は来年も、その次も、ずっと蛍さんのそばにいたい」
 俺ってバカだ。どうして俺に教えてくれなかったのなんて、そんなことの前に、言うことがあったのに。
「蛍さん、誕生日おめでとう」
 驚いたように目を見開いていた蛍さんの唇が、かすかに震えた。
「あり……がと」
 せわしなく瞬きしながら、どうしていいかわからない様子の蛍さんを抱きしめる。今にも泣いてしまいそうなので、ちょっと焦る。
「とりあえず、一緒にお風呂入ろう」
 のぼせることは、お風呂の後でゆっくりね。
 耳元でささやくと、蛍さんは涙目のまま赤くなった。

 

 

 

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*「誕生日」覚書*
2008/04/12 “Phosphorescence”UP