『罪の海に満ちる星』―「おまけのおまけ」
(C)森田しほ 2011 All rights reserved

高殿義久(たかどの・よしひさ/17歳)×遊美学(あすみ・まなぶ/17歳)


 

「巧明さあ、ソーローって知ってる?」
 学は朝食にたっぷりの生クリームとバニラアイスを添えたフレンチトーストを注文した。隣に座った巧明も同じメニューで、義久は二人の隣でメイプルシロップの甘ったるい匂いを嗅ぎながら焼き鮭と出し巻き卵の和定食を食べていた。
 学の質問があまりにも唐突だったので、制止のしようがなかった。
「候? 時代劇か」
「学――」
「たぶん違う。俺時代劇見ないもん。義久が俺のことソーローって言った」
 フレンチトーストを切り分けていた巧明の手が止まる。ついでに周囲にいた生徒たちの動きも止まる。
「殿の口から早漏なんて言葉が出るとは意外だ」
「え、何、殿って早漏なの?」
「いや遊美らしいぞ」
 みるみる話が広まってしまう。何せ皆、娯楽に飢えている。巧明が咎めるような表情で義久に顔を寄せた。
「高殿……おまえ、遊美にそういう言葉教えんなよな」
「教えたわけじゃない――誤解だ」
 しかし自慰だの早漏だの、結果的に俺が教えていることになるのか。
「知らなかったのか、殿はむっつりスケベなんだ」
 トーストとスクランブルエッグにサラダのセットが乗ったプレートを持った西村が、通りすがりに断言する。
「それにしても、おまえら朝からすごいもん食ってるなあ」
 巧明と学のフレンチトーストを見て、西村は苦笑した。学は「美味しいんだよ。一口食べる?」と言いながら西村が座ったテーブルに皿ごと移動する。いつもなら食事中に席を立つなと注意するところだが、今はそれどころではない。足を止めていた生徒たちも三々五々離れていったが、まだ「で、誰が早漏だったんだ」「高殿じゃないの?」などという会話が聞こえてくる。
「つか高殿って、遊美と猥談とかするんだ」
 永いつきあいなのに、俺とはしたことないよなとからかわれる。巧明に限らず、猥談などした覚えがない。そういった話が好きな連中も、おもしろい話は聞けないと判断してか、義久に矛先を向けることはない。
「猥談……のつもりはないんだが、なりゆきで」
「なりゆきってなんだよ。おまえらつきあってんのか」
 歯切れの悪い義久に追い打ちをかけようとしたらしい巧明は、義久が神妙な表情で自分を見ていることに気づくと顔を強ばらせた。
「え……」
 誰彼なく喧伝するつもりはないが、巧明には話しておきたい。夏が終わり新学期が始まってから一カ月の間に、義久はそう考えるようになっていた。巧明とは初等部からのつきあいだ。義久は自分が周囲から「堅苦しい」「つきあいづらい」と思われていることを、子どものころから意識していた。だが巧明はごく自然に義久を受け入れてくれた。時には「そんな言い方じゃ誤解されるぞ」と義久の態度を窘めてもくれる得難い友だ。彼に対しては率直でありたい。
「だとしたら、巧明はどう思う?」
「どうって――」
 巧明はたっぷり二十秒ほど絶句していたが、やがて口を開いた。
「……マジ?」
「見損なったか」
「おまえが遊美を無理やりどうこうしたってわけじゃないんだろ? 合意でつきあってるなら、見損なうも何もない」
「そうか」
「そういや遊美は最初からおまえにべったりだったもんな。惚れられたか」
「いや、俺が惚れて口説き落とした」
「…………へえ」
 巧明の顔には「意外」という言葉が大書きされていたが、それ以上は何も言わずに、すっかり冷めたフレンチトーストを口に運んだ。

 

 寮の風呂設備にはシャワーブースもあり夏場はそこで済ませる生徒が多いが、秋風が吹き夜が冷え込むようになった今時分からは広い湯船のある大浴場が盛況だ。学は広い風呂場が大好きで、はしゃぎすぎて他の生徒の迷惑になることもあるので時間が合う時は一緒に行くようにしている。
「あ、巧明! こっち空いてるよ」
「……あー、ありがとう」
 夕飯時を過ぎると風呂場は混む。義久と学が空いたカランに腰を降ろしたところで、ちょうど浴場に入ってきた巧明を学が見つけた。盛大に呼びかけられた巧明は、不自然に視線を外したまま学の隣に腰を下ろす。反対隣で身体を洗っていた義久は気づいたが、学は巧明の不審な目線に気づく事なく、いつも通りあれこれと話している。
「来週学食に新しいメニューが入るんだって。甘いのだといいね」
「うん、ああ……」
 天井を見上げたまま返事をする巧明に、学が首を傾げる。
「巧明ナニ見てんの?」
 視線を追ってきょろきょろと天井を見回す学に、義久は思わず笑い出した。学の頭越しに巧明が睨んでくる。
「おまえなあ、他人に遊美の裸見られるの嫌だろうと思って気ぃ遣ってやってんのに」
「いや……笑って悪かった。気遣い感謝する」
 謝りながらまだ口元が緩んでいる義久に、巧明も永く怒った顔を続けてはいられなくなった。
「まったく」
 学が好きなのは広い風呂場であって、身体や髪をきれいに洗うことにはさして興味がない。義久が巧明と話している間に手早く洗髪を済ませ身体を洗うと、義久に「もっと丁寧に洗え」と咎められる前に水風呂で騒いでいる連中に加わった。
「気苦労かけて悪いな」
 義久が言うと、巧明はにやりとした。
「いいよ。おまえ最近よく笑うようになったけど、遊美の影響だったんだな」
「そんなに笑っているか」
 驚いて尋ねると、巧明は老賢者のごとく重々しく首肯いた。
「おまえは気取ってるわけじゃないけど、なんつーか武士的って言うか、みだりに笑ったりハメ外したりしませんてところあるだろ。けど遊美と話してるときとか、そうじゃなくても、表情が柔らかくなった」
「そうか……」
「でもマジな話さ、風呂とか嫌じゃないか? 混浴に入ってるみたいなもんだろ」
「巧明は、学を見てどう思う」
 促されて、巧明は遠慮がちに学に目を向ける。学は数人の生徒たちと水風呂の水をかけあって遊んでいる。そろそろ止めに行かなくては。
「ちっこくて痩せっぽちなガキ。……おまえホントに遊美の裸見てムラムラすんの?」
「ああ、する」
 巧明は腕を組んで考え込んでしまった。
 義久が部屋に戻ると、学は自分のベッドに着替えと風呂セットを広げていた。風呂場で他の生徒共々義久に一喝されてわらわらと脱衣所に逃げ込んだ学は、そのまま部屋に戻ったようだ。
「学、次に寮監か監督生から注意を受けたら、年末の寮掃除でワックス当番になるぞ」
 寮の大掃除は冬休みの初日に寮生全員で行われる。注意を受けることの多い生徒が一番の重労働であるワックスがけをするのが恒例になっていた。毎年落ちつきのないお調子物がやるので、寮の廊下のワックスは毎年ムラになっている。
「そうなの?」
「前にも言った。……何をしてるんだ」
「タオルがないんだ。義久知らない?」
「脱衣所に忘れてきたんじゃないか」
「やっぱりそうかな。あれふかふかして気持ちいいから好きなのに」
 ちょっと見てくるとひょいとベッドから飛び降りると、シャツ一枚着たきりの姿で部屋を出て行こうとする。
「待て、何か穿いていけ」
「ん?」
 振り返った学に、義久は床に投げ出してあったズボンを拾って差し出す。
「風邪ひくぞ」
「すぐだから大丈夫」
「ま、待て!」
 慌てて引き止める。
「頼むから、そんな格好で人前をうろつかないでくれ」
 学は驚いたように目を瞠って、それからにっこりした。
「義久ってかわいいなあ」
「何を言ってる。……まさか風呂からその格好で戻ってきたんじゃないだろうな」
 学は差し出されたズボンを受け取る代わりに、義久をベッドに腰掛けさせるとその膝に跨がった。
「タオルを捜しに行くんじゃないのか」
「朝にする」
 言いながら唇を被せてくる。擦り寄せられた頬が冷たい。シャツの裾から手を潜り込ませると、手に馴染んだ肌もひんやりとしている。
「水風呂で騒いでそのまま出るからだ」
「だって義久怒るんだもん」
「だからといって逃げても意味がないだろう。春には三年になるんだから、ああいう悪ふざけはそろそろ卒業しないと」
「んー、でも、楽しいよ」
 もう学は上の空だ。小さく腰を揺すりながら、冷たい頬を義久の頬にぴったりとくっつける。
「義久あったかい」
「俺はちゃんと湯につかってきたからな」
 あたためて、と甘くささやく。肌は冷えているのに耳に吹き込まれた吐息は熱い。背中を撫でていた手を腰に下ろすと、肉の薄い腿まで素肌が続く。
「……どうして下着を穿いていないんだ」
「そのほうが義久が喜ぶかと思って」
「…………俺のことはいいから下着はちゃんと穿いておけ」
「もー、義久は文句多いなあ」
 ぼやきながら、義久のシャツのボタンを外していく。ふと手が止まった。
「最初から穿いてないより脱がすほうが好きなの?」
 まじめに問われて返答に詰まったが、さいわい学は返事を待たずに義久の口を塞ぐ。
「ん、ねえ、義久」
 じゃれあうだけでは物足りなくなったらしい。飛びかかるようにして義久をベッドに押し倒す。ちゅ、ちゅと音を立ててキスを繰り返しながら、股間に手を伸ばしてくる。ボトムの上から痛いほどきつく握られた。
「学……」
 性急さに気圧されながら、義久の体温も上がる。シャツの中の学の肌も熱くなっていた。学は義久に馬乗りになったまま身体を前にずらし、薄い胸を義久の眼前に突き出す。
「舐めて」
 開いたシャツから覗く乳首はすでに硬く勃ち上がっている。舌を絡めながら吸いつくと、学は声を上げて身悶えた。
「こっちも」
 ねだりながら、さらに身体をずらそうとしたところでドアがノックされた。中断にむくれる学の唇に軽くキスして、義久はベッドを出るとシャツの前を合わせボトムのファスナーを上げる。
「寝たふりしてろ」
 潤んだ目で義久を見上げている学に、頭から布団を掛ける。こんなとろけた顔を見られては何をしていたか一目瞭然だ。それに、この顔を見ていいのは俺だけだ。
「はやく戻って来ないと俺一人でしちゃうからね」
 乱れた髪を手で整えながらドアを開けると、そこにいたのは巧明だった。風呂場で会ったとき同様、視線が泳いでいる。
「すまん、もう寝てるかと思ったんだが」
「どうした」
「これ脱衣所に落ちてた。遊美のじゃないかな」
 巧明の手には、学のお気に入りのタオルがある。
「ああ……」
 ありがとうと続ける前に、学が声を上げた。
「俺のタオル!」
 布団の隙間から覗いていたらしい。ひょいとベッドから飛び降りると、まっすぐ駆け寄ってきた。素肌にシャツ一枚被っただけの姿で、そのシャツも前が半分以上開いている。そして学が出てきたのが義久のベッドであることを、巧明は知っている。
「巧明が拾ってくれたんだ。ありがと」
「あ……ああ」
 学は受け取ったタオルに頬擦りすると、「これこれ、ふかふかだー」と上機嫌でベッドに戻っていった。
「……ありがとう…………すまない」
「べつに謝らなくても……こんな時間に来た俺も――いやあの」
「それじゃ……また明日」
「ああ」
「義久なにしてんのー。はやく続きしようよ」
 ドアが閉まりきる寸前に学が元気よく声を上げ、義久は膝から床に崩れ落ちそうになった。きっと巧明も、今の義久と同じことを考えているに違いない。
 明日の朝、いったいどんな顔をして会えばいいんだ。

 

 

 

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

*「おまけのおまけ」覚書*
2011/12/16 “Phosphorescence”UP