『深海の太陽』―「おまけのおまけ」
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鮎川光輝(あゆかわ・こうき/27歳)×浅生真琴(あそう・まこと/32歳)


 

「カニ食ってると口数減るよな」
 ぎっしり詰まったカニ脚ににんまりしながら浅生が言うと、光輝が顔を上げた。
「いや、しゃべりましょうよ。久しぶりに集まったんだし」
 自分も黙々と食べていたくせに。
 クール便で届いたカニや甘エビを抱えて、夏希と久坂の住むマンションを訪れた。でかい身体に厳つい顔の夏希は手先が器用で性格がマメだ。手際よくカニを捌き甘エビやホタテと共に料理屋で出てくるようにきれいに盛りつけてくれる。座卓の中央にどんと置かれた大皿はなかなかの圧巻だったが、男四人で手を伸ばせばたちまち減っていった。
「鮎川くん、来月には戻ってくるんだって」
 浅生に代わって会話を引き取ったのは久坂だった。先週新調したという春らしいパステルカラーのセルフレームの眼鏡がよく似合っている。
「はい。ウニが出てるころだから、買って来ますね」
「いいねえ、ウニ」
 楽しみ、と久坂はおっとり微笑む。
「会話しようとか言う割に、おまえが一番がっついてただろ。北海道で新鮮なの食ってるくせに」
「こっちで買うよりは安いけど、そんなにちょくちょくは食べられませんよ。金ないもん」
「写真集の印税どうしたよ」
「新しいレンズ買いました。あとは部屋代と生活費。冬はとくに光熱費かかるし」
 カニを食べていなくても口数のすくない夏希は、カニの脚から身を取り出しては甲羅に盛ったミソの周囲に盛りつけている。黙々と作業し一匹丸ごと箸だけで食べられる状態にすると、それを久坂の前に置いた。
「ほら」
「ありがとう」
 久坂はさきほどから身を解していたホッケを「はい」と夏希に差し出す。浅生には見慣れた光景だ。無口で愛想がなくバーテンというよりは用心棒といった風情の夏希だが、三つ年下の恋人の久坂にはとことん甘い。その様子を見る光輝の目が輝いている。期待に満ちた視線が浅生に向けられ、慌てて目を逸らすと目の前のカニに集中した。光輝がうずうずしているのが気配で伝わってくる。それでも知らんふりを決め込んでいると、とうとう光輝が声をかけてきた。
「浅生さん、俺カニ――」
「剥かなくていい!」
「なんでですかあ」
「自分のカニは自分で剥く!」
 俺も浅生さんにカニ剥きたい! と二十七にもなって駄々っ子のようにねだる光輝を無視して浅生は大皿に手を伸ばすと、毛ガニの脚をむんずと掴んだ。

 

 食後、カニのスポンサーである浅生と現地調達係だった光輝は後片付け免除となった。カニは偉大だ。お言葉に甘えて、夏希と久坂が二人仲良くキッチンで皿を洗う間、リビングでだらだらと食休みをした。浅生は夏希愛用の多機能大型座椅子に寝そべる。座卓にはデザートのいちごが置かれていて、まだむくれている光輝は一粒手に取ると浅生に差し出した。
「はい、あーん」
 口元に出されたいちごに食いつくと、「なんでいちごはいいのにカニはダメなんですか」と文句を言われた。
「自分のカニは自分で剥く」
 咀嚼したいちごを飲み込み、さきほどと同じセリフを繰り返す。次のいちごを銜えた。
「俺の剥いたカニを食べてほしいんです」
「自分で食えよ」
「もう、ほんっとに素直じゃないんだから!」
「素直に断ってんだよ」
 次、と唇で催促すると、光輝は手にしたいちごを自分の口に放りこみ、唇を被せてくる。口移しのいちごはやけに甘い。
「――こら」
 光輝の舌が浅生の口の中でいちごを押し潰す。喉に果汁が溢れた。
「ん……」
 ごくりと喉を鳴らした拍子に唇の端から果汁が一筋零れた。顎を伝う前に光輝が舐め取る。
「おまえな、よそんちで」
「キスだけ……」
 寝不足のせいか、酒につよい光輝がめずらしく酔っている。
「じゃあこの手はなんだ」
 シャツの中にもぐり込もうとする手を叩き落とす。
「……条件反射です。三カ月ぶりだし」
「ゆうべ散々したろうが」
「三カ月分には足りません」
 そう言いながらもさすがにそれ以上のことをする気はないようで、浅生の肩に頭をもたせかけて目を閉じる。その髪をそっと撫でると、光輝の唇が綻んだ。浅生の頬も緩む。
「……帰ってからにしろよ」
「はい」
 寄り添っているうちに眠気が差してきて、光輝に注意したばかりだというのに自宅ではないことを完全に忘れていた。浅生の肩を枕にする光輝の頭にもたれてうとうとしていると、久坂がキッチンから戻ってきた。
「な――何もしてませんから!」
 寝入っている光輝を押しのけようとじたばたしていると、久坂が笑う。
「起こしたらかわいそうですよ」
「すみません……ほんと……何も」
「布団出しましょうか」
「い、いえ。帰ります」
 慌てふためく浅生に、久坂は意味深な微笑を浮かべる。
「そうですね。明日はもう北海道ですもんね」
 タクシーを呼んでもらい、寝ぼけている光輝を引きずるようにして乗り込んだ。
「おまえは、よそんちでくつろぎ過ぎだ」
 自分のことは棚に上げて叱ると、光輝はしよんぼりする。
「すみません……。けど夏希さんと久坂さんが仲良いの見てたら、俺も浅生さんといちゃいちゃしたくなったんです」
「いちゃいちゃはゆうべしただろ。あと今朝も」
「久坂さんたちって、俺らがいても自然に仲良いですよね。浅生さんは人前じゃ俺に冷たい……」
「よそはよそ、うちはうち」
 恨み言を言っていた光輝が、なぜかうれしそうな顔になる。うっとり微笑むと浅生の肩に頭をもたせかけた。運転手の目が気になるが、しあわせな笑みを浮かべる光輝を押し退ける気になれなかった。
「浅生さんが俺たちのことうちって言ってくれてうれしい」
「……だから、そういうことは」
「わかってます。家に帰ってから、ゆっくり……ね」

 

 翌朝、二人揃って寝坊をした。空港までタクシーを飛ばす。
「なんか……帰るときいつもこうだな」
「しかたありませんよ」
「おまえが言うな」
「二泊三日は愛し合う恋人たちには短すぎる」
 疲れすぎて頭のネジが飛んだか。
 搭乗手続きを済ませベンチでひと息ついていると、見知った人間がいるのに気づいた。加納だ。今日はまた一段と気合の入った趣味の悪さで、ピンクのスフィンクスの描かれたアロハを着ている。繊細で叙情的な作品で知られる写真家とはとても思えない。ちょっと近寄りたくない感じだが、向こうもこちらに気づいたようで近づいてくる。
「知り合いですか?」
「ああ」
 ちょっと行ってくると言ってベンチから立ち上がる。光輝と会わせるとめんどうなことになりそうなので、浅生から加納のもとに駆け寄った。
「よう、真琴。旅行か」
「名前で呼ばないでください。見送りですよ。加納さんこそ、ロケですか?」
 加納は浅生の問いには答えず、おとなしくベンチに残っている光輝に目をやる。
「あれが例の二十五歳か」
「今は二十七です」
「いい男じゃないか。このメンクイめ」
「どこ行くんですか」
「結婚記念日の祝いで沖縄だ。嫁さんはきのうの便でもう向こうにいるんだよ。俺は仕事が長引いちゃってさ」
 銀婚式なんだぜと、子どものように自慢する。
「おめでとうございます」
「沖縄は毎年行ってるから庭みたいなもんなんだけどな」
「加納さん暑いとこ好きですもんね」
「おまえは何だ。婚前旅行か」
「……言葉のチョイスが昭和すぎるでしょ。ただの見送りです」
「そうか。じゃあおまえも一緒に沖縄行くか」
 さらっとむちゃくちゃなことを言う。
「ゴーヤチャンプルー食わせてやるぞ」
「俺ゴーヤは嫌いです」
「じゃあ本場の泡盛はどうだ」
「う……」
「二十七歳も連れて来いよ」
「これから北海道だから無理です」
 五月に戻ることは言わない。
「記念旅行の邪魔する気はありませんよ。それにここで俺連れてったら、また三和土に正座させられますよ」
「……それもそうか」
 納得したかとほっとしていたら、二十七歳が北海道から戻ったらうちに連れて来いと続ける。
「――まあ……いずれ」
 浅生の返事が意外だったのか、加納はまじまじと浅生を見つめる。そして破顔した。この笑顔に浅生は弱い。
「楽しみにしてるよ」
 そう言い残して、加納は手荷物カウンターに向かった。気が抜けたような気分でその背中を見送ったのは、あの返事が浅生自身にとっても意外なものだったからだ。何か荷物をひとつ下ろしたような、奇妙な気分だ。
 ベンチに戻ると、浅生が腰を下ろすのを待たずに光輝が口を開く。
「誰ですか」
 声がすこし尖っている。浅生の視線に気づいた光輝が、言い訳のように言い添えた。
「浅生さんて、外面はいいけど心はなかなか開かないタイプでしょ」
「言いにくいことをストレートに言いやがって」
「……すごく親しそうだった」
 と膨れる。
 そりゃあ、永いつきあいだし――と口にしかけたところで遮られた。
「もしかしてお父さんっ?」
「あのなあ……」
 名を聞けば光輝だって知っているだろう。あんなおっさんだが高名な写真家だ。
 だが……説明するのが億劫になった。
「そんなところだ。今度二人でうち来いってよ」
「家に! ほんとですか! ――やっぱちゃんとスーツ着たほうがいいですよね。手土産って何がいいでしょう。昆布はどっちが用意するんでしたっけ?」
「昆布?」
 盛り上がっている光輝をよそに、搭乗時間が迫っている。
「ほら、もう行けよ」
「とりあえず髪切ります」
「は?」
「ちょっと伸びてきてるから。すっきり短髪のほうが好感度高いだろうし」
「……散髪でも昆布でも好きにしたらいいけど、そんなの帰ってきてからだろ」
 まだ言い募ろうとしている光輝の頬に手をおくと、さっと唇を重ねた。光輝がぴたりと黙った。
「悔いのないようにしっかり撮ってこい。待ってるから」
 光輝はちょっと目を瞠り、それから笑顔になった。
「はい。いってきます」

 

 

 

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*「おまけのおまけ」覚書*
2012/07/19 “Phosphorescence”UP