イブ
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 空港から乗ったタクシーが目的地に着いたのは、クリスマスイブの夕方だった。自宅からは離れた繁華街だ。昨年も一昨年も、年末年始くらいは日本で過ごしてほしいという両親の、とくに母の希望をのらくらとごまかして、留学以来一度も帰国していなかった。両親も兄も、今日の帰国は知らない。兄の見合いがうまくいきそうだと母に聞いて、居ても立ってもいられずに衝動的に戻ってきた。兄のことになると、時折自身でも驚くほど衝動的になってしまう。
 兄はまだ二十五だが、もう何度も見合いをしている。一流大学を出て有名企業に就職した、エリートと言っても過言ではない人生を歩んでいるのに、兄はどこか堅実さとは縁遠いように見えた。学生の頃から、本気とも遊びともつかないつきあいを女とも男とも繰り返していて、両親もうすうす感づいている。経歴に見合う女性との結婚を望む両親が見合いを勧める気持ちはわかる。わからないのは兄だ。今まで一度も交際にすら発展していないことからも、兄が軽い気持ちでいることには違いない。親の言いなりに見合いを繰り返すのは、めんどうくさがりで堅苦しいことが嫌いな兄らしくない。
 陽が暮れると、瞬く間に街には夜の香が漂う。懐かしい喧噪の中を、記憶を頼りに歩く。成人祝いに兄に連れられて来た小さなバーは、今も同じたたずまいでそこにあった。
 成人祝いと留学祝いだと、兄の会社の帰りに駅で待ち合わせた。兄はとても淡泊な人で、こういったことをしてくれるとは思わなかった。妙にそわそわしながら兄を待ったのを覚えている。
「せっかくハタチになったのに、当分一緒には飲めないのな」
 隣り合わせた客の顔がかろうじて見えるほどの薄暗い店だった。ただ暗いのではなく、どことなく優しい、包むような深い暗さだ。カウンターに並んで座り、兄の勧めるカクテルを口にした。最初の一杯はスタンダードにギムレット。ライムの香がさわやかで、遅く帰宅した兄の吐息にこの香がすることがある。
「おまえ、俺よりつよいんじゃないか」
 兄は笑って、次のカクテルを注文した。キス・イン・ザ・ダーク。チェリーブランデーの赤の美しい、ジンベースのカクテルだ。
「甘いけどけっこうきついから、一杯だけな」
 たしかに、暗闇でのキスは甘いが酔いが深い。
 カクテルを楽しみながら他愛もない話をして、しかしバーを出ると兄は「まっすぐ帰れよ」と言い残して駅とは反対方向に歩いて行ってしまった。軽やかな足取りの兄の後を、そっとつける。すこしいかがわしい雰囲気のする界隈を、兄はまるで故郷の水に帰った魚のように自由に歩いた。扉に小さなプレートが掛かっただけの店に、兄は入っていった。扉が閉まりきる寸前、中からかすかに楽しげな笑い声と、聞き覚えのない名前を呼ぶ兄の声が聞こえた。黒く塗られたドアと、鈍い金色で店名を書いた黒のプレートを、いつまでも眺めていた。
 見知らぬ兄の友人たち。兄の世界。キス・イン・ザ・ダークの味が舌に蘇る。

 

 案外簡単に、繁華街を独りで歩く兄を見つけた。会えなければ適当に夜明かしして帰るつもりだった。イブの夜だ。母の言う通り見合い相手と親密になっているのなら、こんな場所をうろついている可能性のほうが低かった。あの時より慎重に尾行する。黒い扉の店の前を、兄は通り過ぎた。別の店に行くのだろうか、それとも誰かと待ち合わせているのか。だとしても、見合い相手ではないだろう。見合い相手なら、夜の暗さとネオンの眩しさに隠れるように会う必要などない。
 高学歴高収入に加え、兄は魅力的な甘い風貌をしており、多少いいかげんなところはあるが性格は明るく社交的だ。客観的に見て申し分ない相手だと思う。今までの見合いがまとまらなかったのが不思議なくらいだ。
「私といても誰か別の人のこと考えてるでしょうって言われた」
 学生時代、恋人に別れを告げられた兄は、ぽつりとそんなことを言ってきた。
「それで兄さんは、誰か別の人のこと考えてたの」
 移り気な兄のことだ、おおかた他に気になる人でもできたのだろう。
 兄は昔から惚れっぽかった。相手は女であったり男であったり様々で、最初は面食らったがすぐに慣れた。兄の恋は実ることが多かったが、どの相手とも長続きはしなかった。留学したのはそんな兄を見ているのがつらくなったからだ。だが兄への気持ちは消えなかった。いつからこんな気持ちを抱えていたのか、もう覚えていない。
 他の人のことを考えていたのかと訊かれて、兄は思いがけず真剣な目を向けてきた。
「おまえはそんなことないか」
「ないよ」
 気持ちが移ったことなどない。ずっと兄だけを想ってきた。
 油断してしまい、兄の姿を見失った。歩道の一角に人が集まっており、通行人の流れがむちゃくちゃになっている。片方の車線が客待ちタクシーの列で塞がれた道路にまで、人が溢れている。怒号らしき声が聞こえる。ケンカか、それとももっと物騒なことか。遠回りする者、わざわざ近寄っていく者。やじ馬が集まるのとは逆方向に歩いて遠ざかる。つまらない騒ぎに巻き込まれるのはごめんだ。パトカーのサイレンが近づいているから、じきに治まるだろう。しかしもう兄を見つけるのは無理かもしれない。
 と、ふいに背中に衝撃を受けてよろめいた。バランスを崩したが、転ぶことなく踏み止まれた。ぶつかった相手を咄嗟に抱きとめる。
 顔を上げる前に、兄だとわかった。懐かしい薄い肩。腕の中にちょうど収まってしまう。兄は華奢だが、俊敏でしなやかだ。兄さん……と思わず呟いた声は、兄の声に消された。
「すみません」
 至近距離で見つめられて、反応できなかった。兄はすぐに視線を外し、不安定な姿勢のままきょろきょろと地面を見回す。
「やば、コンタクト落とした……」
 兄は裸眼ではほとんど見えない。夜ならばそれこそ目の前にいる人間の顔すら判別できないほどだ。メガネは家でしか使わないので持ち歩いていないはずだ。まさかこんなところで、留学中の弟に会うとは想像もしていないだろう。気づかなくても無理はない。
「見つからないよね、やっぱり」
 暗い上にこの人出と混乱だ。未練がましく地面を見ている兄の肘にそっと手を添えた。
「ここは危ない」
 注意深く声をひそめる。留学してからの二年間、兄とは国際電話で二度ほど話しただけだ。
 兄は首肯いて、促されるまま歩きだした。近くの喫茶店に入り、小さなテーブルを挟んで向かい合う。
 本当に気づいていないのだろうか。所在なげにしていた兄が顔を上げる。焦点が合わないせいだろう、その視線はかすかに揺らいで頼りない。こんなに頼りない目をした兄を見るのは初めてだ。
「両方いっぺんに無くすなんてついてない」気まずいように苦笑する。
「……送りましょうか」
「ありがとう。けどそこまで世話かけるわけにはいかないし、友達呼ぶから大丈夫」
 ポケットから取り出した携帯を、片手で弄ぶ。
「友達、近くにいるんですか」
「まぁね」
 慎重な言葉で、互いの距離を測る。
「見えないんだから、家に帰ったほうがいいですよ」
 兄は答えず、運ばれてきたコーヒーに口をつける。もういつもの兄に戻っている。
「こんな時間にこんな場所で、コーヒー飲むとは思わなかった」
「何するつもりで来たんですか」
 無遠慮に距離を詰めても、兄は気分を害した様子はなかった。カップをわきに避けると、頬杖をつく。店内の蜂蜜色の照明が、兄の目の中で蠱惑的な光に変わる。
「あんたはどこに行くつもりだったの」
 二年前の晩に兄の入っていった店の名前を口にすると、兄は意外そうに軽く目を見開らいた。
「どういう店か知ってる?」
「ええ」
「ふぅん」
 唇に、からかうような笑みが浮かんだ。
「これからどうすんの? 予定通りあの店に行く?」
「いや、もしよければ……あなたは今夜の予定は?」
 あなただって、と兄はまた笑った。
「同じ店に行くところだったんだ」
「そう。じゃあ……手間が省けたと思っていいのかな」
「そうみたいだね」
 先に兄が立ち上がり、その後に続いた。兄は迷いのない足取りでどんどん歩く。本当は見えているのではないか訝しんだとたんに、小さな段差に躓いた。勢いよく転びそうになったのを、間一髪腕を掴んで引き寄せる。兄にふれて、これは夢ではないかという気がしてきた。明るい店内で向かい合って話までしたのに、兄がまったく気づかなかったことに拍子抜けしていた。寂しいような気持ちもある。おまけに兄は驚くほど簡単に――行きずりの男の誘いに乗った。
 男同士で寄り添って歩いていても、この界隈では奇異の目で見られることはない。二人が兄弟だと知る者もいない。寄り添ったままホテルの前で立ち止まった。
「ここでいい?」
 首肯くと、またさっさと歩き出す。部屋も兄が選んだ。ラブホテルの内装はもっと安っぽいものだと思っていたが、意外と落ちついた印象だ。兄はよくここを利用するのだろうか。そう思うと、頬のあたりが強ばった。
「ああいう店にはよく行くの?」
 訊きたかったことをそのまま質問されて、一瞬言葉に詰まった。
「ああ……」
「嘘つきだね」
 兄は甘く微笑む。
「まぁいいや。そんなことどうでもいい。お互いね」
 兄はベッドの端にかけると足を組む。
「シャワーお先にどうぞ。それとも、何か飲む?」
「いや、いらない」
 手慣れた男のフリをするつもりだった。こんな遊びは何度もしている、気楽な行きずりの相手だと思わせておきたかった。だがホテルのベッドに腰掛けた兄を前に、思わず訊いていた。
「あなたは……いつも、こんなことしてるの」
 目の前の相手を推し量るように、兄はゆっくりと瞬きをした。「そう見える?」
 艶めいた表情で質問を躱す。家族には決して見せない表情だ。
「こういうの嫌?」
 探るように見つめられて、ろくに見えていないのだとわかっていても落ちつかなくなる。子どもの頃から兄のこの目に惹かれていた。
 抱きしめて、そのしなやかな感触に身震いするほど欲情した。鼻先が兄の首筋を掠める。
「ん……、くすぐったい」
 笑って身を捩る。拒んでいるのではない。誘っている仕草だ。肩にふれている手を掴み、押し伏せるようにしてベッドに重なった。
「ねぇ、シャワーは」
「いらない」
 キスをする。ずっとふれたかった兄の唇。離れて、もう一度。また離れて。不思議な磁力に引き寄せられるようにキスを繰り返していると、兄がゆっくり微笑むのを唇に感じた。行きずりの相手に何度もキスをするのは不自然なのかもしれない。だが構わずに続けた。一生分のキスをする。そのうち兄も夢中になって、肩に腕を回してきつく抱きしめてくる。
 唾液に濡れほんのりと赤く染まった兄の唇。求められれば誰とでもこんなに甘いキスをするのか。
 そんな気持ちをまるで見透かしているように、兄は挑発するような表情を浮かべた。手を取ると、指先を口に含む。きつく吸われ、舌が絡みつく。まるで別の場所をそうされたように、腰のあたりがざわつく。
 性急な求めにも、兄は黙って応じた。
「きつい?」
「……大丈夫」
 ささやくと、小さく息をつく。兄は態度ほどには慣れていなかった。ほっとして、それからひどく興奮した。無茶をしても、見栄を張っているのか兄は文句を言わない。身体全部を使って、兄の中に自分を刻む。
 極まると、兄はそのまま眠ってしまった。
 部屋代は払ってある。このまま兄を置いて消えるのが一番いい。そうわかっていたが、兄から離れることができなかった。タクシーを呼べば、見えなくても家に帰ることはできるだろう。だが兄は寝起きが悪い。このまま独りて眠っていれば、きっと寝坊をする。
 兄の顔を見つめているうちに朝になった。携帯の音楽を耳元で鳴らしたり揺さぶったりしてみたが、やはり起きない。
 起こし始めて三十分近くたって、ようやく兄は目を開いた。
「……ああ」
 兄の唇に、淡い笑みが浮かぶ。「あんたか」
 もう帰りの飛行機の時間だった。ベッドを出て身支度をする。
「急いでんの?」
 首肯く。
「俺を起こすために朝までいたの?」
 兄は子どもみたいにくすくす笑った。家族に向けるものではない、だが親しい相手に対する笑み。着替えの手を止め、兄に近づく。ごく自然にくちづけを交わす。一度だけきつく舌を吸ってから離れた。
 ホテルの前で兄と別れ、そのまま空港に向かった。

 

.   *

 

 翌年の春、表向きには三年ぶりの帰国をした。あのイブからまだ半年も経っていない。兄に会えばあの夜の男の正体に気づくかもしれない。気づかれることは恐ろしくなかった。心のどこかで兄に気づいて欲しいと思っている、自分の気持ちが恐ろしかった。
 あれは夢でいい。
 今度は空港からまっすぐ家に向かった。タクシーが高校時代毎日通った桜並木を走り、イブに戻ったのは、こことはまったく違う国だったような気がしてくる。あの夜、幻の国で、幻の男を抱いた。
 兄は仕事で、会えたのは帰国の翌朝だった。着替えて一階に降りると、兄はぼさぼさ髪にパジャマ姿のまま和室の小さいテレビでゲームをしていた。寝起きの悪い兄は、最近休日の朝は起きてから完全に目が覚めるまでゲームをしていると、ゆうべ母が言っていたのを思い出した。
「おはよう、兄さん」
「ん、ああ、おはよう」
 まだ眠いようだ。兄は家では安っぽい黒縁のメガネをかけている。あくびをした拍子に下がったメガネを指で押し上げる。
「正月なんで帰って来なかったんだ」テレビに目を向けたまま兄が言う。
「勉強が忙しくて」
「ふぅん」
「……もしかして、お見合いの人があいさつに来てたりした?」
「お見合いの人?」
「つきあってるって聞いた。お見合いした人と」
「ああ、あれね。二三度デートはしたけど、それだけ」
「けど、兄さん気に入ったって。まとまりそうだって」
「なんだ、母さんおまえにまでそんな話してたの。まったく」
「断ったの? どうして」
「どうしてって、べつに。いい人だったけど、結婚する気にはならなかっただけ」
 気がつくと、兄はもうテレビ画面を見てはいなかった。あの夜のような、どこか遠くを見るような目をまっすぐに向けてくる。
「……どうして何度もお見合いするの」
「結婚したいほど好きになれる人に逢えるかもしれないから」
 まるで呪文でも唱えるように、兄は淡々と言った。
「急いで出会う必要なんてあるのかな。兄さんまだ二十五なのに」
「六だよ」
 兄はふと目を伏せた。
「必要はあった。けどもう……いいんだ」
 ふたたび目を上げる。イブの夜、喫茶店のテーブルで向かい合ったのと同じように向かい合う。その目をいくら覗いても、兄が何を思っているのか知ることはできなかった。
 掃き出し窓から射し込む朝陽が、兄の目の中で揺れている。

 

 

 

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*「イブ」覚書*
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