花を
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「私、結婚するよ」
 なんでもないことのように、律子さんは言った。私はジョッキを傾けて、ビールをひと口呑む。ぬるくなりかけているビールの苦みに舌が痺れた。口の中で、感覚のない舌を前歯で軽く噛む。

 律子さんとは、時々呑みに行く。
 場所は居酒屋であったりちょっと洒落たバーであったりと、その時の気分によって変わる。今日は、焼き鳥が食べたいと言う律子さんを、東北の地鶏を専門に扱う店に誘った。その店は地酒が豊富で、日本酒党の律子さんを、いずれは案内したいと思っていた。
 律子さんと知り合ったのは二年前。もうなんの集まりだったのか忘れてしまった。律子さんは私を誘ってくれた友人の友人で、十人掛けのテーブルの、壁際に座っていた。私は彼女の斜め向かいに座った。律子さんは乾杯のビールを乾した後は、冷酒ばかり続けて注文した。思いだしたように肴を摘まみながら、くいくいと速いピッチで呑む。その呑み方がいい。お猪口を持った手首を返して、ひょいと乾すのだ。かしましい会話には加わらない。だけど浮いた様子はない。喧噪をよそに、静かに、律子さんは杯を重ねた。私から声をかけた。話しかければ、律子さんは愛想よく、というほどではないがすらすらと答えてくれる。律子さんは私より三つ年上の三十一歳だという。デパートに勤めていると聞いて驚いた。
「デパガですか」
「デパガよ」
 律子さんは涼しい顔でお猪口をくいと捻る。律子さんの持つ飄々とした雰囲気と、デパートでの接客は、私の中でうまく結びつかなかった。
 その後何度か、同じ友人の催す集まりに参加したが、律子さんと会うことはなかった。初めて会った日に交換した電話番号を使ったのは、一カ月後だった。財布の隅でくしゃくしゃになっているメモ用紙に書かれた番号の意味を思い出すのにしばらくかかった。思いたって電話して、会うことになった。それから月に一二度電話するようになった。長くは話さない。電話のたびに会う約束をした。
 最初の何度かは、ほんの気まぐれだった。けれどそのうちに、意識的に律子さんに電話をするようになった。
「呑みませんか」
「呑もうか」
 そんなやりとりをして、呑みにいく。勤め先のことはおろか、身の回りのことすら話題にはのぼらない。この店のホッケはうまいとか、今日はいい天気だったとか、そんなことをぽつぽつと話しながら、呑む。よく飽きないものだと思うが、それが不思議と心地よい。ヘタをすれば、律子さんの住所はおろか名字すらすぐに思い浮かばないときがある。それがまた心地よい。
「美味しいですか」
「美味しいわね。砂肝がとくにいい」
 そう言いながら、お猪口をくいと捻るようにして煽る。律子さんの手入れされた爪に塗られたベージュのマニキュアや白い喉が酒を嚥下するのを見つめながら、私はきのうの女の首すじの香を思い出していた。

 女は華恵と名乗った。
 勤めを終え駅に向かう途中だった。背後で「あら」という声がして、思わず振り返った。屈み込んでいる女がいる。どうしました。声をかけると、顔を上げる。律子さんだった。いや、律子さんではない。女は目が合うと、眉を下げて笑った。 「折れちゃったみたい」
 律子さんはこんな笑い方はしない。女の履いた靴の、踵が折れている。
 明日は律子さんと会う。今日はまっすぐに帰宅するつもりだった。それなのに、気がつくと肩を貸していた。女は私の耳元で笑った。笑って、華恵と名乗った。
 靴屋で踵を接げてもらい、誘われるままに夕食を供にすることになった。向かい合って座ると、ますます律子さんといるような気になってくる。律子さんは黒いままのまっすぐな髪を、肩にふれないていどの長さにしている。華恵は髪をオレンジかがった茶色に染めていて、バラバラの長さにした毛先を無造作に跳ねさせていた。
 華恵はよく笑い、よく話した。私が相槌をうたなくても、どんどん話す。一人で話して、一人で笑った。しかし話すことに内容はない。律子さんと話すようなことを、より多くの言葉を費やして話す。そのようすを見て、彼女は孤独なのだろうかと思った。律子さんは孤独だろうか。私は、孤独なのだろうか。すくなくとも、律子さんといるときの私は、孤独ではない。そんなことを考えながら、華恵のよく動く唇を見ていた。
 店を変えて、すこしだけ呑んだ。私はもともと酒は好きでない。華恵はよく呑んだ。呑んで、ますます笑った。足元のふらついている華恵を抱えるようにして、ホテルに入る。明るい照明の下で見ても、華恵は律子さんによく似ている。酔いに朱色に染まった華恵の顔を、まじまじと見つめた。律子さんは、酔いを面に出さない。両手で頬を包むと、熱い。
「私、女の人とキスするの初めてよ」
 悪戯っぽく笑って、華恵がささやく。
「唇なんて、男も女もたいしてかわりないでしょう」
「そうかしら」
 そうかしら、と言う唇にキスをする。
「そうかなぁ」首を傾げて、まだ言っている。唇が離れるたびに、そんなことをささやく。私はなにも言わずに、華恵に唇を重ね、肌を重ねた。

「栄子ちゃん、今日はペース遅いのね」
 ふいに言われて、律子さんを見る。律子さんの前には、もう三本の銚子が並んでいた。私の中ジョッキにはまだ半分ほどビールが残っていて、泡がすっかり消えている。
「律子さんが速いんです」
 律子さんはちょっと目を細めて笑う。

「花、好き?」
 身繕いをしているそばで、華恵が言った。
「べつに」私は華恵を見ずに応える。華恵は小さな女の子のように笑った。
「私は大好き」

「私、結婚するよ」
 いつですか。
 誰と。
 舌が痺れているせいで、言葉は出なかった。ほんとうは、いつだろうが誰とだろうがどうでもいい。

「私は大好き」
 セカンドバッグから、華恵は花を取り出した。剥き出しの花だ。そこらで千切った花をそのままバッグに入れていたようだった。小さな白い花は、水気を失ってしんなりとしていた。しんなりとしているのに、甘い香がする。すこしくどいほどに濃い香だ。
「あげる」
 萎れかけた花を私に押しつけると、華恵は手早く身繕いを済ませて先に出ていった。私はゆっくりと着替え、花をベッドに残して部屋を出た。ホテルの外で彼女が待っていたらどうしよう。すこし警戒しながら建物を出たが、華恵の姿はなかった。ほっとしたが、それはそれですこし寂しいような気もした。

 おめでとうございます。そう言うのが妥当だろう。舌の痺れを取るために、ウーロン茶を飲んだ。ついでに唇を湿す。ゆうべ華恵と、何度もくちづけした唇。律子さんの唇を見る。マニキュアと同じ、ピンクっぽいベージュの口紅が、すこし剥げかかっている。私はゆっくりと口を開いた。
「花、好きですか」

 

 

 

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*「花を」覚書*
2002/01/01〜2001/01/11
2002/02/25 “Phosphorescence”