秘め事
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 開け放したままの掃き出し窓から、夕暮れの陽射しと風が部屋に入りこんでくる。俺たちの産む熱は、夜の気配を含んだ風に攫われる。
「あ……ふ」
 堪えきれない声が、彼の唇から漏れる。俺を締めつける内部の痙攣も、下腹に当たる固い肉も、限界を伝えていた。だが俺は気づかないふりをして、彼のほっそりした首にくちづける。まだ時間はある。今日は練習試合があると言っていた。そろそろ試合が終わる。その後ミーティングがあるから、あと一時間は若槻は帰ってこない。彼の弟は。
 クライマックスの気配を味わいながら、彼の頬に乱れかかった髪を指先ではらう。彼が薄く目を開ける。欲情に潤んだ、だがどこかよそよそしい目だ。俺はその目に惹かれ、また恐れた。
「俺のこと、好き?」
「好きだよ」
 彼の言葉には温度がない。

 

 若槻とはとくに親しかったわけではない。なぜ家に行くことになったのか、もう覚えていない。若槻の好きな野球選手のインタビューの載った雑誌を貸して、その代わりに何かを借りたのだったか。とにかく夕焼けの眩しい道を、たいした会話もなく二人で歩いて若槻の家についた。森のように鬱蒼とした庭木に囲まれた大きな家だ。両親は共働きで、家には脚の悪い兄だけがいた。玄関ホールまで車椅子で出てきて、弟のクラスメイトにあいさつをした。
「いらっしゃい」
 柔らかな声で言う彼に目を奪われる。文字通り、俺はその瞬間彼に奪われていた。彼は俺の目の中にあるものを正確に読み取ったようだった。それを不快に感じたり戸惑ったりする様子はなく、薄い唇に淡い笑みさえ浮かべた。だから隠さなかった。感情を剥き出しにした目で彼を見つめた。
 しかし若槻はすぐに兄の車椅子を押し奥へと行ってしまった。一人で戻ってきて、彼にはもう会うことはできなかった。
 理由を作っては若槻を訪ねた。興味のない野球雑誌を買いスポーツニュースを見た。はじめは訝しんでいた若槻も、しだいに俺の訪問に慣れていった。
 会社を経営しているという両親はほとんど家におらず、週に三回家政婦が通ってくる。だが基本的に若槻が帰宅するまで彼は家で独りきりだ。車椅子を使ってはいるが完全に歩けないというわけではなく、身の回りのことなどは自力でできるという。そんなことを知ってから、若槻の帰宅が遅くなる日を狙って彼を訪ねた。
 玄関先に現われた彼は、車椅子ではなく前腕を固定するタイプの片手杖を使っていた。吹き抜けの玄関ホールは夕焼けの赤に染められている。
「信二はまだ帰ってないよ」
 真正面から見つめられて、嘘をつけなかった。つく気もなかった。
「今日はあなたに会いに来ました」
 今日だけじゃない。いつだって、あなたに会うためだけに。
 そういえば、名前を知らない。若槻はアニキとしか呼ばない。
「じゃあ、どうぞ」
 杖を支点に身体の向きを変える。想像していたより背が高い。彼の後についてリビングに向かう。
 ソファに腰掛けようとしてふらついた彼を支える。腰に回した手に、腰骨の尖った感触がはっきりと伝わり狼狽した。
「このソファは座りづらくて。悪いけど、部屋まで来てくれる?」
「車椅子取ってきましょうか」
「大丈夫だよ。時々は使わないとどんどん鈍る」
 彼の部屋は一階の一番奥にある広い部屋だった。俺に椅子を勧めると、彼はカバーの掛かったままのベッドに腰掛けた。中庭に面した掃き出し窓からも夕陽は射して、彼の頬を銅色に輝かせる。
 それからは若槻のいない時間にだけ彼を訪ね、三度目の訪問で、彼の部屋のベッドで彼を抱いた。彼は拒むでもなく求めるでもなく、ただ静かに俺を受け入れた。
 強ばった彼の脚に手を這わせる。自由に動かないのが不思議なくらい美しい脚だ。感覚はほとんどないと言っていたのに、脚を愛撫していると彼の息は乱れた。
 何度目かの寝物語に彼が話した。彼の脚が不自由なのは若槻に原因があるらしい。
「ばかな子。いつまでもそんなこと気にして」
 蜜のように甘い声で、彼は言った。

 

 その日、彼はなかなか俺を離そうとしなかった。
「なあ、そろそろ……」
「大丈夫。まだ、大丈夫」
 そう繰り返し、何度も俺を求めた。しだいに彼に没頭した俺は、ドアの開く音に気づかなかった。
 若槻は俺の名前を叫び、アニキから離れろとわめいた。
「アニキに何してやがる! この野郎、動けないにアニキによくも」
 わめきながら飛びかかってくる。殴られた。彼は身体を起こすと、まだ俺の体温が残っているはずの身体をシーツで隠す。彼はどこかよそよそしい目をして、若槻と若槻に殴られる俺を見ていた。
「出ていけ! 二度とここに来るな。今度アニキの前に顔だしたら殺してやる」
 裸のまま中庭へ突き出され、服を投げつけられた。ぴしゃりと閉められたガラス戸は夕陽を映して、中の様子を見ることはできない。ズボンに脚を通しシャツを羽織ると、ボタンを止めながら玄関に回り門を出た。
 気まずい思いはあったが、後ろめたい気持ちはなかった。たしかに若槻には隠していたが、やましいことをしていたわけではない。それでもこんなに惨めな気分なのは、激高する若槻の後ろで、いつもと変わらず静かな目をしていた彼のせいだ。
 翌日、若槻は学校を休んだ。
 対決を覚悟していた俺は拍子抜けした。家で若槻と彼がどう過ごしているのかぼんやりと考えたが、想像がつかなかった。
 騒がしい中にもどこかけだるい雰囲気のする週明けの教室に現れた若槻の顔色は悪かった。
 若槻は俺から目を逸らす。まるで自分が罪人であるように。
 嫌な予感がした。

 

 それでも二週間待った。週末を利用した野球部の合宿のある日まで。
 外灯に照らされた中庭に面した彼の部屋。窓の外に立つ俺を見つけても、彼は驚かなかった。ベッドに上体を起こした姿勢のまま手招きする。まるで打ち合わせてでもいたように、ガラス戸の鍵は開いていた。
 月の明るい晩だった。彼は俺を迎え入れ、いつも通り静かに抱かれた。
 俺に抱かれながら、彼は薄く笑った。
「あの後、信二は俺を抱いたよ」
 動揺を知られたくはなかった。だが皮膚が粟立つのは止められない。
「あれから毎日、何度も何度も」
 どんなに愛撫しても、彼の肌はひやりとしたままだ。もう俺ではだめなのか。かろうじてぬくもりを感じられる体内に、逃げ込むように挿入する。彼は歌うように続けた。
「ずっと欲しかったんだ。……ありがとう」
 その声を聞きながら、俺はあたたかな体内ではなく蛇の口内に銜え込まれているようにぞっと身震いした。

 

 

 

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*「秘め事」覚書*
2004/11/25
2005/01/08〜2005/01/20
2005/01/21 “Phosphorescence”UP