刻印
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「どうして」
 縋るような目をして言うので、いやなのか、と問い返す。
「いやじゃない。もっと、咬んで」
 哀願する彼の声はひどく淫らだ。まだ昼日中だというのに、私が歯を立てるたびにあられもなくシーツの上に身をのたうたせる。カーテンから漏れる陽光が、彼の肌をまだらに彩っている。締めきった部屋で淀む午後の空気に、ゆっくりと濃密なにおいが混じってゆく。
 私は刻印のような咬み痕を、彼の身体にいくつも刻んだ。そのたびに彼はくぐもった声を上げる。彼が年下の恋人にこの痕をなんと言いわけしているのか私は知らない。私が知っているのは、欲望だけが先走る若い恋人とのセックスに彼が満足していないことだけだ。
 出会ったのは五年前、彼はまだ大学を出たばかりの子どもだった。最初は甘噛みから始めた。彼はひどく痛がって抵抗したが、それを五年かけて慣らしていった。今ではつよく咬めば咬むほど、彼は深い快感を得るようになった。乳首を咬むとあっけなく果てる。私は彼を自在に奏でることができた。
 今日の彼は飢えていた。私がいつもより焦らしたせいもあるのだろう、目には涙が滲んでいる。逐情に濡れてなお、まだねだるように頭をもたげている部分を握りこみ、ゆっくりと揉みしだいてゆく。すぐに固さが増してくる。
 念入りに、いつもより深い傷を刻む。彼が恋人に言い逃れできないほど深い傷を。私はまるで苛立っているようだ。彼はいつもと違う私に怯えている。そしてその恐怖の中に悦びを見出している。
 彼は身内に荒れ狂う劣情を味わうように、固く目を閉じていた。唇が動き、かすかな喘ぎが漏れる。彼は気づいてないに違いない。声にならない声が、恋人を呼んでいることに。彼の肌に唇を滑らせる。肩口の薄い皮膚を咬んで、ギリギリと歯を立てると、彼の喉が鳴る。私の歯は刃のように鋭い。すぐに、白くなめらかな皮膚から血が滲み出す。彼を追いつめる動きをとめないまま、私は傷口にぴったりと唇を押しつけて、その香と味わいを楽しみながら血を嘗めとった。

 彼は身支度を整えると、ちらりと姿見に目をやる。はたから見える場所に痕がないか確認したのだろう。私はそんなヘマはしない。本当の刻印は、目には見えない。彼はため息とともに小さく呟いた。
「愛してるのに」
 恋人に向けた言葉だろう。愛していても、若い情熱だけでは満たされない己を蔑んでいるようでもある。
 気が向いたらまたおいで。そう言うと彼は暗い、自嘲めいた笑みを浮かべ、何も言わずに出て行った。
 私の唇には彼の血の味が永く残った。

 

 

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*「刻印」覚書*
2001/05/14〜2001/06/24
2001/06/25 “Phosphorescence”UP