共犯者
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 三日前の深夜、義兄が階段から落ちた。足首をひねっただけで大事には至らず、義兄が教鞭をとる公立高校もちょうど春休みに入ったところだったので、義兄自身がしばらく不自由を強いられる以外はとくに不便はなかった。
「どじねぇ」
 と呆れ顔だった姉の美弥子は、意外とかいがいしく夫の世話をやいた。しかし今日は半年も前から楽しみにしていたという観劇に出掛けるため、朝から家を空けることになった。マチネとソワレの両方を観るため、帰るのは夜になる。
「じゃあ、直紀さんのことおねがいね」
 肉親の気安さで、姉はそう言うとさっさと出て行った。義兄のほうはしきりにすまなそうにしている。
「悪いね、智くん」
「気にしないでください」
 智はもともと、休日ごとに家を空けるタイプではない。この春から大学院に在籍することが決まっており、就職に絡むごたごたからは無縁なのをいいことに最近ではとくに家に籠もりがちになっている。智と姉とはちょうど十歳違いで、義兄と姉は高校の同級生だった。
 姉が用意していった総菜で昼食をとり、日中はサンルームで過ごした。祖父の代に建てられた平屋は、祖父の趣味が反映された洒落た造りになっている。イギリス風のサンルームは六角形をしており、周囲は半世紀近い年月をかけて育まれた庭が鬱蒼とした緑を茂らせている。両親が亡くなってからは、姉が結婚するまでは二人住まいだった。姉は社交的な性格で外出することが多く、智はこのサンルームで独りの時間を満喫した。
 天井に取り付けられたパドルファンがゆったりと回転している。義兄は足置きのある籐椅子に座り、新学期の授業プログラムを作っていた。智は一人掛けのソファに腰掛けて文庫を読むふりをしていた。義兄がこちらを見る心配のないことを智は知っている。細い鼻梁を持つ端正な顔立ちや、銀縁の眼鏡の奥の、意外に長い睫が陽に透けるようすを子細に観察した。義兄は長身で、身体つきはすんなりしている。運動など何一つしたことがないと笑うわりには、その身のこなしには優雅なしなやかさがあった。
「部屋ですこし休むことにするよ。肩を貸してくれないか」
 義兄が遠慮がちにそう声をかけてきたのは、昼と夕方のちょうどさかいのころだった。文庫をテーブルに置いて、義兄の隣に立つ。腰を抱くと、義兄の身体はかすかにこわばった。智は気づかないふりをして、義兄をさらに抱き寄せ立ち上がらせた。
「痛みますか」
「いや、大丈夫だよ」
 姉夫婦の寝室は昔は両親が使っていた。ダブルベッドを中央に姉が持ち込んだ家具がモザイクのように並べられている。清潔で真新しい、新婚の寝室だ。智は義兄をベッドの端に座らせると、ドアの前に戻り錠を降ろした。振り返ると、義兄は表情を硬くしている。
 まっすぐ歩み寄り、義兄の足元に膝をつく。
「義兄さんがいけないんだよ。あんなにあわてて逃げるから、足を踏み外す」
 指先だけで、包帯越しに脚にふれた。
「案外そそっかしいんだね」
 義兄は頑なに目を伏せたままだった。
 智はベッドに膝を上げると、義兄の眼鏡を外した。丁寧に畳んでサイドテーブルに置く。姉のお気に入りのアンティーク風の洒落たテーブルだ。手早く服を脱ぎ捨て、義兄のシャツに手をかける。ふれた指先から、義兄の戸惑いと期待が伝わってくる。ワインを舌で転がすようにそれを楽しみながら、ボタンを外していく。
「いけない」
 喘ぐように言って後ずさる。逃れようとする義兄の身体をベッドに押しつけ、重なった。
「いけない、智くん」
 拒絶の言葉を紡ぐ唇を舌先でなぞる。
「あ……」
 舌を誘い出し絡めとってから、深く唇を合わる。義兄の舌は狂ったように智の舌に絡みつく。だがまだ身体は強ばっていた。解すように手を這わせながら、残った衣服を剥ぎ取っていく。義兄の肌はたちまち熱を帯び呼吸も切迫してくる。
「智くん……やめなさい。こんなことをしてはいけない」
 くちづけの合間にささやく言葉は、熱い舌とは裏腹に白々しい。智の頬にかかる吐息には、欲情が匂い立つ。
「う……」
 義兄は頑なに声を殺そうとする。しかしその分身体は過敏に反応した。肌には薄く汗の乗りはじめ、智の手に馴染む。
「いつまでもこんなこと、続けてちゃいけない」
「でも、すくなくとも今日は逃げられないね。この脚じゃ」
 観念したのか、義兄は口を噤んだ。伏せた睫の奥の瞳が、まるで初な少女のように揺れている。眼鏡のないその顔は幼く見えた。
 腿を腋に挟む形で、脚を持ち上げる。義兄がはっと息を飲むのを感じた。
 眼前に晒された場所に、智はためらいなく唇を押し当てた。ローションは使わず、唾液で時間をかけて解すのを智は好んだ。その方が義兄の羞恥と官能を煽ると知っているからだ。
 合図のように脚を撫でて奥に指を這わせると、白く平らな腹が波打つ。
「そんなに動いたら怪我をするよ」
 侵入するのは容易かった。待ち兼ねていたように智を搦め捕る。智は義兄の目を覗きこみながら、身体を揺すった。瞳の中で蕩けるような快楽が星のようにきらめいている。それでも義兄の腕は智を抱くことはなく、シーツの上をのたうつだけだ。
 智の背中に、レースのカーテンを透かした陽射しが落ちている。そのあたたかさをぼんやりと感じながら、もっと激しい熱を孕む義兄の身体に没頭した。脚を抱え上げられ揺さぶられながら、義兄は固く目を閉じる。まぶたのあわいから、涙が一筋零れる。智を受け入れ燃え盛るその場所だけが、別の生き物のようだった。
 何度抱いても、義兄は頑なに欲望から目を背ける。しかしその身体は隠しようもなく智を求めていた。そんな自分に戸惑い嫌悪を感じているのが、智には手に取るようにわかった。
「美弥子を愛しているんだ」
 初めて抱いたとき、義兄は泣きながらそう言った。その言葉は真実なのだろう。けれどそれは、身体の欲求とはなんの関係もない。
 素直に楽しめばいいのに。
 智はそう思いながらも、義兄の儀礼的な、だが切羽詰まった拒絶と葛藤を楽しんでいた。義兄も同じなのかもしれない。
 包帯の上にそっと手を置く。浅く深く責め立てなから身を乗り出すと、義兄の耳朶を唇に含む。耳朶を舌先で玩びながら、秘密めかしてささやいた。
「脚……痛むんじゃなかったの、義兄さん」

 

 

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*「共犯者」覚書*
2000.05.01〜
2004.04.06〜2004/04/09
2004/04/09 “Phosphorescence”UP