眠り姫
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「眠らせて」
 千束が窓から入ってくるようになったのは、高校受験を年明けに控えた十月のことだった。徹也はK大付属の中学に電車で通っている。千束も当然そこを受験するものだと思っていたのだが、試験は受けず近隣の公立中学に入学した。
「千束くんもねえ、小さいころは神童なんて言われてたけど」
 母の声には優越感が滲んでいるが、後に続ける言葉は決まって濁した。中学に入ってからの千束がタチの悪い連中とつるんでいるのは、近所でも有名だった。
 受験は目前だというのに、このごろ集中ができない。目や頭になにか透明な膜が貼りついてしまったようだ。数式も単語も、すべてこのつるつるとしたものの表面を滑って流れていってしまう。虚しい努力をしているうちに、目の奥から後頭部にかけてがじわじわと痛みはじめる。こうなると集中など夢のまた夢だ。最近では焦るのにも疲れ果てて、机の前でただぼんやりと時間が過ぎるのを待っている。就寝時間までそうして、ベッドにもぐりこむ。眠りは浅く不快で、朝になっても疲れはすこしも取れていない。しかし起きているのも苦痛だ。狭い場所をぐるぐると回っているような徒労感に包まれていた。付属高校に落ちれば母は嘆くだろうし、徹也自身も決まりが悪い。大人は「今がんばれば春からは楽ができる」と言うが、そうはならないことは中学受験で実証済みだ。
 千束は部屋の隅に座り込むと壁にもたれ、眼鏡を外して目を閉じた。
「おい、千束」
 あわてて声をかけても、千束はもう深く規則正しい呼吸をしている。一時間ほど眠って、階下からの母の声で目を覚ました。大きく伸びをして身体をほぐすと、来たときと同じように窓から出ていった。徹也が窓から身を乗り出して外を見ると、千束は一階部分の屋根を歩いて庭の物置に移る。ひょいと芝生に飛び降りると、夜の中を自宅とは逆方向へと走って行った。
 それから、時々千束はやってくるようになった。空が暮れなずむ頃に窓からきて、徹也が夕飯を食べている間に出ていく。かと思えば夜遅くにふらりと現れたりもした。最初の日は錠を掛けていたので、千束は窓をノックした。しかし徹也は翌日から窓に錠を掛けなくなったから、千束はなんの合図もなく突然入ってくるようになった。
「おまえ、いつも机に向かってるのな」
 そう言って、部屋の隅に丸まった。千束はほとんど話さない。徹也も、なんと言葉をかけていいかわからない。小さい頃はほとんど一日中一緒にいたのに。あの頃、どんな話をしてたのか、それすら思いだせない。

 

 付属中学は徹也の家から電車で三十分ほどの場所にある。片道一時間以上かけて通学している生徒もいることを考えると、近いほうなのかもしれない。
 週に三日は学校から直接塾に向かう。塾の帰り、夜の繁華街で千束を見かけた。騒ぎながら歩いているガラの悪い高校生くらいの少年グループの中に、千束はいた。年上の少年たちに囲まれて、小柄な千束はいっそう小さく見える。千束は徹也に気づき、だがすぐに視線を外すと、そのまま一度も徹也を振り返らずに去っていった。
 声をかけられたくなかった。他の連中に千束と知り合いだと知られたくなかった。なのに、なんだか寂しかった。千束はこんな時間に、あいつらとどこへ行くんだろう。
 翌日も千束はやってきた。ゆうべのことは何も言わない。いつものように「眠らせて」とだけ言うと部屋の隅に転がった。
 あの夜と同じ場所で千束を見たのは、それから二日後だ。千束はポケットに手を突っ込み、身体を前に倒すようにして足早に歩いていた。前すら見ていないようだったが、奇跡的に徹也に気づくと足を止めた。
「今日は一人なのか」
 ああ、と千束は不機嫌に答えた。
「あいつら薬やってて話になんねえ」
「……おまえはやってないよな」
 千束は顎を上げると挑むように徹也を見た。華奢な銀フレームの眼鏡がネオンを反射してキラリと光る。レンズの奥の目が澄んでいたので、徹也はほっとした。
「俺はあんなの嫌いだ。金かかるし、第一、ヘロヘロになってるとこ人に見られるなんて我慢できない」
 ああ、そうだ。千束は昔から、こういう潔癖なところがあった。

 

   *

 

 昔はもっと、毎日が楽しかった。そんな気がしてしようがない。思い出が美化されているだけだろうか。あらためて考えてみると、具体的な出来事は浮かんでこなかった。ただ千束と一緒だったのは確かだ。中学に上がるまては、ほとんど一日中千束と過ごした。
 振り返ると、千束は部屋の隅で丸まっていた。眼鏡はすこし離れた床に置かれている。椅子が軋まないように注意深く立ち上がって、千束に近づく。床に膝をついた。電灯を背にした徹也の影が、千束を覆う。上半身を傾けて、顔を寄せる。寝息が、かすかに聞こえた。目の下に薄青い隈が出来ている。
 最初から眠ってなどいなかったように、千束が目を開けた。徹也は驚いて身を引き、尻餅をついてしまった。あたふたと立ち上がり机に戻る。
「徹也」
 恥ずかしくて振り返ることができない。耳の奥が熱かった。
「なぁ徹也ってば」
「なんだよ」気まずくて声が尖る。
「こっち向けよ」
 まるで叱られているような気分で、徹也はゆっくりと振り返った。裸眼の千束は睨むように目を細めて徹也を見ている。
「来いよ」
 徹也は言われるままに千束の前に戻り、膝を折った。
 ジーンズの前立てに、千束が掌を乗せる。
「な……なに」
 空いたほうの手でうろたえる徹也のうなじを掴むと、ぐいと引き寄せる。千束の肩に顔を押しつけるような格好になった。千束の首筋はなめらかで、かすかに汗のにおいがする。千束は片手だけで器用にファスナーを降ろした。
 下着の中に手を滑りこませると、ためらいなく徹也を握った。
「千束っ」
 声が裏返った。他人にふれられるのは初めてだった。千束は無言のまま手を動かし、徹也はたちまち反応してしまう。こんな状態を見られるのも、無論初めてのことだ。
「やめ――」
 しぃっと、千束は唇を尖らせた。
「力抜いてろよ」
「……う」
 呆気なく達してしまい、徹也は顔を上げることができなかった。
「徹也」
 艶を含んだ声に抗えずに目を上げる。千束の指先には徹也の放った液体がついていた。目を合わせたまま、赤い舌先でそれを嘗めとった。ぞくり、と徹也の背中に官能の震えが走る。千束の手が徹也のシャツの裾をまくると、顔を寄せ胸にキスをする。徹也は千束の肩に顔を埋めると、ふたたび目を閉じた。

 

   *

 

「徹也、いつまでテレビ見てるの」
 夕食の片付けを終えた母が、リビングに入ってきた。
「はやく部屋に帰って勉強しなさい」
 母の小言はここからが長い。徹也は早々に立ち上がった。リモコンに手を伸ばす。ニュースは最近オープンしたテーマパークの話題が終わり、数度に渡り未成年の少年を買春していた会社員が逮捕されたと告げている。少年は徹也と同い齢で、大掛かりな売春グループがあるという。
「いやねえ」
 母は心底不快げに眉をひそめた。身体目当てで男を買う男がいる。その事実に徹也はすくなからず衝撃を受けた。部屋に戻り机に向かっても、教科書を開く気にはなれなかった。千束の頬に落ちる睫の影。肌の滑らかさや、シャンプーの残り香と汗の混じったにおい。そんなことを取りとめもなく反芻した。千束は手慣れていた。
 胸の疼きも薄れたころ、千束は何事もなかったようにやってきた。
「眠らせて」
 そう言うと、部屋の隅で丸まって、瞬く間に眠ってしまう。熟睡する千束の寝顔を、徹也はぼんやりと眺めた。
 小さい頃は、遊んでいるうちに二人とも疲れて床の上で眠ってしまうことがしばしばあった。眠りは濃く甘やかで、その心地よさは今では味わえないものだ。階下からの、夕暮れを告げる母の声で目を覚ます。

 

 千束の指が、机の縁をなぞる。ぶつかったり擦れたりして、表面はざらついている。懐かしむような目をして天板の木目を見つめている。
「おまえも同じやつ持ってるだろ」
 二人が小学校に入学した年に、同じ机を買ったのだ。そのころはまだ、二つの家には親しい行き来があった。
「捨てた」あっさりと千束は言う。「窓から庭に捨ててやった」
「おまえがか? いつ」
「去年かな。姉さんが出てったころ」
 千束は微笑んだ。泣いてるみたいな笑顔だった。
 シャツの袖から覗く千束の手首は細く骨張っていて、手も小さい。重い学習机を放り投げるほどの力があるようには見えなかった。何があったんだろう。気づかなかった。隣に住んでるのに、ちっとも気づかなかった。
 だが徹也はそれを尋ねようとは思わなかった。窓に目を向けると、千束の家の屋根と中庭の一部が見える。
 千束の姉さんが家を出てから、もう一年経つ。五つも齢が離れていたし、内気な人だったのであまり親しくはなかった、顔もおぼろげにしか覚えていない。とくに美人ではなかったが、そばにいると安心できるようなタイプの人だったことだけは記憶に残っている。
「徹也」
 千束が唇に艶めいた笑みを浮かべて徹也を呼ぶと、それだけで腰のあたりが重苦しくなった。徹也は床に膝をつき、千束が手を伸ばす。同じ手順で同じ快感をなぞる。
「小母さん、下にいるんだろ」
 からかうように言う千束の息が耳をくすぐる。猛りきった徹也を痛いほどきつく握ると、千束はささやいた。
「入れたい?」
 わけのわからないまま夢中で首肯いた。
 千束はするりと離れると、ファスナーを降ろしジーンズから脚を抜いた。シャツは着たままで、あらためて徹也の肩を抱き寄せる。自然に千束の脚に手が伸びた。あたたかくなめらかな感触を手のひらで味わう。徹也を抱きしめたまま、千束は用意を済ませた。徹也を握って促す。
「え――」
 面食らう徹也に向かって、大人っぽい苦笑を浮かべた。徹也はムキになって自分から侵入を試みる。なかなか息が合わない。千束はからかうようにずっと徹也を弄り続けていたから、やっとのことで千束の中に収まると、こらえきれずにすぐに動いた。
「く……」
 千束は徹也のするのにすべて任せた。がむしゃらに突き上げると、千束は徹也のシャツの、肩を包むあたりを噛んで声を殺した。
 動くたびに、千束の背中が床に押しつけられる。痛いだろうなと思ったが、ベッドに移動するゆとりはなかった。それにこれは、ベッドの中ですることではない気がする。
 千束に恋しているわけじゃない。
「俺も年明けには出てくよ」
 荒い息の合間に、千束はなんでもないことのように言った。
「――出ていくって、どういう意味だよ」
「意味なんて、そのまんまだよ。姉さんみたいに出てく」
「何言ってんだよ。どうする気なんだよ。住むとことか、仕事とか。やってけるわけないだろ。未成年なのに」
 徹也の肩に顎を乗せて、千束はゆっくりと腰をうねらせる。千束の中で萎えかけていたものがふたたび勢いを取り戻し、徹也は一瞬意識が遠のくのを感じた。
「先輩がさ、住むとこと仕事世話してくれるって」
「その人、信用できるのか」
 心配しなくていいと、千束はささやく。
「いつも一緒にいるあいつらとは違うよ。姉さんの中学の時の友達で、バイクショップで働いてる、すごいまじめな人」
 千束はわずかにためらってから続けた。
「ただその先輩……俺のこと好きなんだって。前から言われてたんだけど、ごまかしてかわしてたんだ。けど、もう無理みたい」
 千束は徹也につよく腰を押しつけると、いっそう深く徹也を受け入れる。小さな呻き声を上げた。
「……そいつとするのか」
「うん。たぶんそうなると思う。俺が嫌なら無理強いはしないって言ってくれたけど、居候させてもらうし、そうもいかないだろ」
 千束はもう何も言わずに、きつく目を閉じ眉をひそめている。それが苦痛からか快感からか、徹也には判断できない。身を乗り出し乾いた唇にくちづけすると、千束は目をひらく。濡れた黒い瞳。一番大事にしていたビー玉の色合いに似ている。深海の水を封じ込めたような、美しいガラス玉だった。
 涙をこらえるように何度かまばたきすると、千束は徹也のうなじに手を置き、引き寄せた。繋がったままぴったりと抱きあって、密着した肌の熱さに溶けていく。
「てっちゃん」
 千束がささやいた気がした。聞き違いだろう。中学が別になってから、千束はそんな呼び方はしなくなった。
 千束が夜の中へと消えても、徹也は部屋の隅に呆然と座りこんでいた。
 やってけるわけないだろ。未成年なのに。
 保護者もいなくて中卒じゃ、ろくなところで働けない――あの後そう続けようとして、唇が強ばった。これは大人の考えだ。事実ではあるが嫌な考えだ。
 やがて、大きく息をついて、徹也は立ち上がった。足音を忍ばせて一階に降りる。リビングからテレビの音声がかすかに聞こえた。洗面所でシャツを脱ぐと、肩口に千束の歯の跡と唾液が残っている。徹也はシャツを丸めるとランドリーバッグに押しこみ、ごわついた内股や股間をシャワーで洗い流した。
 また千束は来なくなり、勉強に専念する日々が続いた。第一志望のK大付属高校には、徹也の偏差値では無理がある。中等部にいるのだから当然高等部に、と両親は思っている。勉強が好きなわけでも、成績が抜群によかったわけでもない。公立小学校から付属の中学にぎりぎりで合格して、ついていくのがやっとだった。今はもうついていくことすらできない。指一本で高等部に引っ掛かったとしても、すぐに腕が痺れて落ちてしまうのはわかりきっていた。
 焦りと苛立ちが、ゆっくりと腹の底に沈殿していく。
「眠らせて」
 千束が現れたのは、あの日からひと月近く立ってからだった。千束はすこし痩せて見えた。
「背が伸びたから、そう見えるだけだろ」
 千束は素っ気なくいうと、部屋の隅に転がって寝息を立て始めた。
 机に向かう気にもなれず、徹也は床の上にぼんやりと座って、千束の寝顔を見ていた。膝行って近づく。千束が目を覚ますまで、徹也はその寝顔を見つめていた。千束は起きるとすぐに窓から出ていった。

 

   *

 

 あたたかな夕暮れ。窓から差し込む陽射しが、遊び疲れて眠る幼い徹也と千束の頬を飴色に光らせる。徹也のほうが先に目を覚ました。額にうっすらと滲んだ汗を手の甲で拭う。かたわらの千束は徹也の肩に頭をもたせかけて、ぐっすり眠っている。夕陽にオレンジ色に染まった千束の顔。薄く開いた唇はふっくらとして柔らかそうで、桜の花びらみたいな色をしている。甘い味のしそうな唇。どうしてそんな気になったのか、もう覚えてはいない。顔を寄せると、すうっという音が聞こえ、あたたかい吐息が鼻をくすぐった。おやつに食べた桃の香がする。
 花びらみたいな色の唇はあたたかく、花びらのやわやわした感触よりもずっと心地よい。
 千束のまぶたが震えたので、徹也はあわてて離れた。きのう二人で観たアニメビデオ、キスで目覚めるお姫さまそのままに、千束はゆっくり目をひらく。
「てっちゃん?」
 千束はまだ寝ぼけているようで、目の焦点があっていない。うろたえる徹也への助け舟のように、階下から母の声が聞こえた。
「てっちゃん、ちぃくん、もう遅いから、そろそろ降りてらっしゃい」
 あの頃の母の声は今より柔らかかった。
 千束ははぁいと返事をして立ち上がる。
「行こ、てっちゃん」
「うん」
 散らかしたおもちゃを片付けて、手を繋いで階段を降りる。階下からは、肉ジャガの匂いがしていた。
「子どもなんて、あっという間に大きくなって出てっちゃうんだから」
 そう母は言う。たしかに子どもでいられる時間は短いのかもしれない。だが母さんは忘れてしまったのだろう。学校がどんなに狭かったか。放課後がどんなに永かったか。

 

 千束と汚れたツナギを着た少年が一緒にいるのを見たのは、やはり塾の帰りだった。ひょろりと背の高い、痩せた少年だった。身体つきは頼りないが、目尻の上がった一重の目は怖いほど真剣に千束を見ている。夜風に乗って、少年の声がかすかに徹也の耳に届いた。
「なあ、千束、俺は別に――」
 徹也はその場をから逃げ去った。
「さっき一緒にいたの、こないだ言ってた先輩?」
 窓から入ってきた千束に詰め寄る。そんなことするつもりはなかったのに。千束は怪訝な目をして黙っている。
「なあ、行くなよ。高校受験なんかしなくていいじゃん。俺も――しないから」
「何言ってんだ、おまえは付属の高校行くんだろ。せっかく中等部入れたのに」
「無理なんだ……とても無理だ」
 今日の面談でも、他の学校を考えたほうがいいと言われた。付け焼き刃でどうにかできる状態ではないと。
「徹也なら大丈夫だよ」
「わかったようなこと言うなよ!」
「ごめん……」
 八つ当たりされても、千束は静かな目をしている。
「でも俺、ここにはもういられない」
 窓の外を吹き渡る木枯らしのような声だった。蛍光灯の白々とした明かりの下で、千束の顔は作り物のようだ。
「あいつと……暮らすのか」
「最初はね。でも金貯めたらすぐに出ていく。独りでやっていきたいから」
 徹也が手を伸ばすと、千束は抱きしめてくれる。抱きあったまま床に座り込んだ。千束は小さくて、本当なら徹也の腕の中にすっぽり収まるくらいなのに、逆に千束にすっぽり包まれた。
 行くなよともう一度言うと、千束はそっと微笑んだ。
「徹也だって、高校卒業して大学も卒業したら出ていくだろ。俺のほうがちょっと早くなるだけ」
 徹也の腕の中で身じろぎすると、千束は鼻がふれあう距離で徹也を見つめた。
「エッチなことしてごめんな。俺がいなくなっても、覚えていて欲しくてさ。他のやつらはいいんだ。でも、徹也にだけは忘れられたくない」
 徹也の頬に涙が伝ったのに気づくと、千束は苦笑した。
「忘れないって、覚えてるって言ってくれよ」
「……てる」うつむくと、鼻先から涙が滴った。
「ありがと。あのさ、徹也にしたこと、俺だって全部初めてだったんだぜ。慣れてるふりするのけっこう大変だったんだから」
 いたずらっぽい口調で千束は告白する。徹也はほっとして微笑もうとしたが、頬が引きつっただけだった。
 千束の手が肩にふれて、徹也は自分が震えていることに気づいた。
「泣くなよ」
 徹也の頬にぴったりと頬を押しつける。ふれあった肌が熱い。
「うれしい。俺のために泣いてくれて、うれしい」

 

 徹也はK大付属の高等部へ進級することはできず、春から近隣の私立高校に通うことになった。千束は春を待たずに家を出たきり帰ってこない。しばらくは近所の主婦たちの話のタネになっていたが、もう誰の口の端にも、千束の名前は上がらない。
 高校生活は思っていたより快適だった。新しい友達もできたし、部活にも入った。制服を見ては母がため息をつくのにも慣れた。
 今でも時折、徹也は自室の隅でうずくまるようにして眠る千束の姿を見る。夕陽に照らされ飴色に光る頬とそこに影を落とす長いまつげ。
「てっちゃん」
 花のように微笑む千束の姿を、静かに眠る千束の姿を、泣きそうな顔で笑う千束の姿を、徹也はがらんとした部屋の隅に見ていた。

 

 

 

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*「眠り姫」覚書*
2001/06/08
2004/05/18〜2004/06/03
2005/05/19〜2005/06/05
2005/06/05 “Phosphorescence”UP
2005/06/06 検索エンジン「カオスパラダイス」に「同性の恋愛♂×♂(年齢制限無)」で 登録