スイッチ
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 その部屋には審査官であり試験課題であるルウと、学部内でただ一人の追試験者のイオ……つまり俺の二人きりだった。
「では、これから機械工学科ロボット制御実習の追試験を始めます。追試験者はナノマシン講座六年イオ・ザナ・カクト。審査官は機械工学科所有のROMA3−203型アンドロイド、登録名ルウです。課題は僕……ルウの身体に埋め込まれたスイッチを探すこと。時間は五時間。スイッチを押せばキーワードを発声するよう設定されています。キーワードによってタイマーが止まり、試験は終了です。質問はありますか、イオ」
「ある」
 俺は部屋を見回してながら言った。ザイ教授の研究室だ。書架にパソコンラックに執筆用の机。部屋の隅に衝立てがあり、その奥に来客用のソファセットがある。部屋の中央にある、普段は教授の私物が山を成しているでかい机は、今日はきれいに片付けてあった。俺はこの机の表面を初めて見た。
「ここじゃ設備がない。これから移動するのか」
「いいえ。特殊機材の使用は禁止です」
「じゃあどうやって探すんだ? 君にさわりまくってスイッチを探せとでも?」
「そのとおりです、イオ」
 俺は呆然とした。課題の内容を尋いたときにまず頭に浮かんだのは、ルウの指先の毛細血管から探知マシンを注射し、表皮に近い血管を巡回させて異物……つまりスイッチを探すことだった。マシンの設定を含めて五時間ならなんとかなる。それが、手探りだと? 車に轢かれて血まみれになっていても、病院に運んでメスを入れるまで人間と見分けがつかないアンドロイドがうようよといるこの時代に。
「一度だけヒントを出すことが出来ます」
 なぜかルウは、ちょっと赤くなった。十三から十五歳くらいの設定だろうか、ルウは小柄で華奢な少年の姿で、白っぽい金髪に琥珀みたいな目をしていた。
「がんばってくださいね、イオ」
 かわいらしい顔をして微笑む。だが俺はルウが苦手だ。
「では、開始」
 ルウの声に反応したタイマーが、カチンと音を立てて作動した。

 ロボット制御などという基礎科目で追試を受けるはめになったのは、試験前夜、バイト先の無国籍居酒屋で食べたスペイン風かつおのタタキが腐っていたせいだ。翌日の試験が一科目だけだったのは不幸中の幸いだった。
 大学というのは金がかかる。ただ在籍しているだけでもあるていどの出費はあるが、機械工学などをそこそこ真面目に研究しようものなら、もう気の遠くなるほど金がかかる。俺の親は中小企業の勤め人だし、二人の弟もそれぞれ中学と高校の受験を控えている。絶対に落第するわけにはいかなかった。大学院には進まず、来春、専門に研究しているナノマシンの組み立て技術を活かして医療機器を扱う会社の研究室に就職する予定だ。
「イオ、準備を」
「ああ……そうだな」
 落ちつけ。俺はあたりを見回した。ソファに掛かっているカバーを外して、テーブルの上に敷く。
「ここに上がって、服を……服を脱いでくれないか」
「はい」
 さりげなく、ルウに背を向けた。ノートモバイルをセットする。端子を繋いで、もう一方をルウに。
「体性感覚をオフにするから」
「はい」
 ルウが耳の裏に端子を繋ぐと、俺は液晶画面に映し出されるルウのデータに素早く目を通した。体性感覚を遮断しておかないと、ルウは不快な思いをすることになる。たとえアンドロイドとはいえ、人格も感情もある。試験課題として物のように扱われるのには対抗があるだろう。なぜザイ教授は、孫のようにかわいがってるルウを課題として提供したのだろうか。
 操作は簡単だ。そのはずだった。
「えっと……そうだ、パスワードは」
「わかりません。マスターパスワードはザイ教授と学長しかご存じありません」
 俺があわてているのに気づいたらしいルウが、テーブルを降りる。
「どうしたんですか。感覚遮断にはパスワードは必要ないはずですが」
 シャツ一枚しか身につけていないルウが隣に立ち、俺はさらにあわてた。
「あ……と、ロックがかかってるようだ」
 横から、ルウが画面を覗く。体性感覚データが画像で表わされている。改めて遮断操作の手順を行ったが、表面感覚も深部感覚もロックされていた。
「おかしいな。スイッチを埋め込んだ時には、ロックなんてかかってなかったのに」
「処理をしたのは」
「ザイ教授です」
「あの人大雑把だからな、間違えてロックしちまったんじゃないか」
 ルウは反論したそうに口を開いたが、そのまま閉じた。ザイ教授は高名な研究者で、人望もある。憎めない人だが、何をするにも大味なところがあるのは、いつも傍にいるルウが一番よく知っている。
「……イオが承諾してくだされば、このまま続けたいのですが」
 日程が押していますので。ルウは困ったように眉を下げたまま俺を見る。
「俺は……構わないけど」
 ありがとうございますと返す語尾が小さく、ルウの耳たぶがほんのりと朱に染まっていく。表面感覚を遮断しなければ、皮膚へ加えられる感触はすべて伝えられてしまう。
「ま、まずは末端から調べるから、シャツは着ていてくれ」
「はい」
 テーブルの上に座り直したルウの手を取り、指先から調べた。なめらかな皮膚。細い指。桜色の小さな爪。人間の皮膚細胞から造られた有機皮膚は、色艶から感触まで、人間とかわりない。イオは頭に血が昇るのを感じた。集中できない。顔を上げてルウの表情を確かめる度胸はなかった。
 ルウほど人間に近い外見を持つアンドロイドを見たことがない。過ぎるほど端正な顔立ちは非人間的な印象を与えるが、表情の豊かさがそんな印象をすぐに払拭してしまう。知り合ってもう六年になる。だが、どんな形であれ彼に手をふれるのはこれが初めてだった。
 シャツの袖を捲り、腕を調べた。スイッチはたぶん、骨に取り付けられているだろう。続いて顔を。顎に指を添え上を向かせると、ルウは目を閉じる。鼻筋から頬、顎のあたりを、丹念に指でなぞっていく。ミルク色の肌。思わずキスしたくなるような、柔らかい唇。薄いまぶたもきれいな弓なりの眉も、いつまでも見ていたい、ふれていたいと思わせる。
 けれどそれはルウがアンドロイドだから。人間に好印象を与えるように造られているのだから、至極当然のことなんだ。俺はあらためて、自分にそう言い聞かせた。
 額を調べ、髪の生え際にも指を滑らせる。頭皮を調べたあと、ほっそりした首に指を這わせた。うなじにふれると、ルウの体がかすかに震えた。シャツをずらすと、鎖骨の出っぱりや尖った肩骨にもくまなくふれた。
 内骨格のロボットが造られるようになってからどのくらい経つのか。中学の近代史のテストに出ていたし機械工学基礎1の序文にも載っていたはずだが、忘れた。ルウの原型が造られたのは俺の祖父が生まれたのと同じ頃だ。人間と寸分変わらぬ外観を持った内骨格アンドロイドの数が、人間人口の五パーセントを越えた年であった。
 ルウは元は政府機関に所属していたそうだが、二十年ほど前に払い下げになって機械工学部所有になった。実験と研究のため、さまざまな最新機能が追加されているが、基本は「いかに人間に近づけるか」という一点に絞られている。だから演算能力以外の身体能力は人間並だ。
 ルウは学部の献体ではあるが、普段は教授の秘書をしている。端末を繋いでデータを取ったり心理学を専攻している学生からインタビューを受けていることもあるが、たいがいは教授の肩を揉んでいるか教授の食事の支度をしているか教授の散らかした書類の整頓をしているかのどれかだった。
 研究室に入るとすぐにルウの姿を探してしまうのも、ルウの笑顔を見て心が和むのも、それはあたりまえなんだ。だってルウはそういうふうに造られているのだから。
「十四、五の少年の姿をしたアンドロイドなんて、マニアックだよな」
 そう言ったのは、アンドロイド心理学を専攻しているアシオスだ。俺とアシオスは中学からの腐れ縁で、ザイ教授に師事する俺について研究室に入り浸っている。レポートのために、ルウにインタビューをするのだ。
「いらっしゃい。イオ、アシオス」
 ルウはいつも笑顔で迎えてくれた。丁寧に抽れたチャイニーズティーをふるまわれる。アシオスの不躾な質問にも、ルウは仕事の手を止めて答えた。
「ごめん。口を」
「はい」
 ルウは素直に口を開ける。唇に指を添え内部を覗く。口内も人間にそっくりだ。形のよい白い歯が整然と並んでいる。赤い舌も粘膜も、人間とかわらない。
「ふう」
 マニュアルに沿って、表皮にはすべてふれた。見落としてしまったところはない。ルウの髪は乱れ肌もすっかり上気していた。琥珀の瞳が潤んでいる。一瞬、その瞳に見とれた。だがすぐに学生の目に戻ってルウを見た。ルウの目が潤んでいるのに、俺は気づかないフリをした。俺の息が乱れているのに、ルウは気づかないフリをしている。空気が重い。熱い。
 あばらに沿って、ゆっくりと指を這わせる。ルウの脇腹がびくりと引きつり、俺の手から逃れるように身を捩った。しかしすぐに動を止める。
「すみません――」
「いや」
 静かに横たわる。動作に淀みはないが、耳たぶや額、首まで真っ赤になっている。俺は短く息を吐くと、もう一度ルウにふれた。どうも調子が狂う。集中しなくてはならないのに。
「……」
 ルウの唇が、震えるように動く。ぎゅっと目を閉じ息を詰めたルウを見ていると、やましいことをしている気になって落ちつかない。
 集中しろ。今はスイッチを捜すのに集中しろ。
 何度自分に言い聞かせても、ルウの呼吸に、感じる肌の感触に、頭がぼやけてくる。
 耐えきれずに、ルウから離れた。
「だめだ」
「え」
「続けられない」
「僕のことは気になさらないでください」
 あわてたようにルウが言う。
「いや、ルウは関係ない。俺が」
 冷静になれない。ルウにふれているのに、冷静でいられるはずがない。
「イオ……」
「追試放棄だ。手続きをしてくれ」
 ルウは動こうとはしなかった。テーブルに腰掛けたまま、うつむいてしまった。
「君のせいじゃないんだ」
 ルウは激しく首を振った。涙が零れて、素肌の膝に落ちる。
「いえ、僕が悪いんです」
 はらはらと泣きながら、ルウは言った。
「こんなことになるなんて考えてなかった。僕、教授にもう一度追試をしてもらえるようおねがいします。だから……」
 ごめんなさいと呟いて、また泣く。
「どうしてルウが謝るんだ。追試になったのは俺が試験を欠席したからで、ルウのせいじゃない」
「僕が言ったせいなんです」
「なにを」
「イオと二人で過ごせる時間が持てたら、とても素敵だろうなって」
 俺は自分の顔が見る見る赤くなっていくのをはっきり感じた。
「だから教授はこんな追試を……僕が悪いんです」
 鼓動がはやくなる。もう自分をごまかせないほど。おそるおそる、ルウの肩にふれる。ルウが胸にもたれかかってきた。抱きしめる。
「追試放棄はしないよ。スイッチは必ず見つける」
 ルウは俺の胸に顔を埋めたまま、何度も首肯いた。
「だからもう泣かないで。協力してくれるだろ?」
「はい」
 このままずっとルウを抱きしめていたかった。俺を見上げるルウの目があんまりきれいだったから、ついキスしまった。柔らかい唇に何度もキスをした。
「イオ」
 ルウがキスの合間にささやく。
「イオ……ここはさっき調べました」
 もう一度キスをして、熱い舌を絡めとった。
「調べてるんじゃないよ。キスしたかったんだ」
 ルウの目がまた潤む。手を上げると、そっと俺の髪にふれる。
「イオの髪、すごくきれいで、ずっとさわってみたかったの」
 抱き寄せて、シャツの背中に手を差し入れると、ルウはうろたえた声を上げた。指で背骨を探っていくと、ルウの身体が強ばる。息を飲むのがわかった。
 短いベルが三度鳴り、追試験開始から三時間経ったことを告げた。
「イオ、僕は」
 両手で頬を包みこみ、ゆっくりと撫でた。ルウがうっとりしたように目を閉じる。薄く開いた唇に、もう一度キスをした。
「はやく……スイッチを見つけて」
 吐息のまじりにささやく。俺は首肯くと、ルウのシャツに手を差し入れた。手を動かすたぴに、ルウは密かなため息をつく。
 ルウをテーブルに仰向けに寝かせた。シャツを捲り上げる。白い肌の上に、桜色の突起。指でふれると、きゅっと皮膚が縮まって固くなる。口に含むと、ルウがあっと声を上げた。
 手を回して、桃みたいなお尻の膨らみにふれる。ルウはびっくりして顔を上げた。ゆっくりとその狭間に指を這わせた。
「ん……」
 自分の上げた声に恥じらって、ルウは顔を真っ赤にした。かわいい。ルウの身体はどこもかしこも柔らかく、弾むような弾力があった。
「ごめん」
「いえ」
 ルウは困ったようにうつむいた。どうしよう。自分を抑えることができない。
「イオ、これはセックスですか」
 ルウが俺を見上げて言う。情欲に濡れていても、ルウの顔には侵し難い品がある。
「アシオスが、イオは……保守的だから、アンドロイドとはセックスしないと言っていました」
「保守的、じゃなくて石頭って言ったんじゃないのか」
 そう言うとルウは苦笑して、そうですと答えた。
「これって、法定強姦にはならないのかな」
 腕の中のルウの身体は、罪悪感を感じるのに足るほど幼い。
「僕はあなたよりずっと年上なんですよ」
 ルウが微笑む。からかうように付け足した。「でも、窃盗になるかもしれません。僕は大学の所有物ですから」
 俺たちは共犯者の密かな微笑みを交わして、あらためて抱きあった。
 ルウの肌の隅々に、さきほどとは違う熱心さで手を這わせる。俺の腕の中で、ルウの身体は魚のように蠢いた。ルウの小さな手に愛撫されると、くすぐったいような疼くような快感が湧きおこる。
 何も考えられない。理性を必死に手繰り寄せる。しかしそれは水のように指の間を零れていった。ルウ。
「ルウ……」
 名前を口にするだけで、欲望が高まり背筋が震えた。
 さきほどから、腰に回した手に、かすかにスイッチを掠めている感触があった。
「イオ……イオ」
 キーワードを、聞いてみたくなった。うわ言のように俺を呼ぶルウの細い身体を抱き起こすと、桜色に染まった耳朶にくちづける。
「ルウ……一度だけ、ヒントくれるんだったよな」
「ん……はい」
「教えて」
「はい」
 俺の目をまっすぐに見つめると、ルウは目元を赤く染める。そっとささやいた。
「もっとつよく抱きしめて」
 尾てい骨の下の皮膚が、俺の指の下でかすかに引きつるのを感じた。ルウをいっそうつよく抱きしめながら、スイッチを押した。
「イオ、好き……大好き」
  カチン
 タイマーの止まる音が、静かな部屋に響く。けれど俺の耳には届いてはいなかった。抱きしめたルウの鼓動と熱だけが、俺を満たしていた。

 

 

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*「スイッチ」覚書*
2000/05/22
2002/07/07〜2002/10/03
2002/10/03 “Phosphorescence”UP