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 酔いにまかせて彼のアパートに向かった。深夜だというのに窓に明かりが灯っている。周囲の窓はみな塗りつぶしたように暗く、彼の部屋の明かりは沖から見る岬の灯台のようだった。
 非常識な来訪者を、彼は笑顔で迎えてくれた。一年のほとんどを旅先で過ごす彼の部屋は、殺風景なほど簡素だ。奥の和室の暗がりに、加奈恵が鏡台がわりに使っているのだろうスタンドミラーの載った小さなテーブルと椅子が見える。
「寒いだろう。上着は脱がないほうがいい」
 そう言う彼自身、セーターの上にモスグリーンのダッフルコートを着込んでいる。高校時代からの愛用の品だ。そのころの彼は野暮な黒縁のメガネをかけていたが、現在は細い銀縁のものを使っている。
「このとおりで何もないけど」
 と言いながら、渋く抽れた番茶をふるまってくれた。
 高校二年のときから、もう四年近いつきあいになる。彼は温和で穏やかな人間だが、疎外されるのを恐れてむやみに他人に迎合するようなところは微塵もない。そんなところに憧れていた。
 彼はバックパッカーだった。旅費が貯まるとふらりと出掛けてしまう。彼はカメラを持ち歩かない主義だったから、彼の旅を偲ばせるのは話と持ち帰ったみやげだけだ。みやげを渡すとき彼はいつもすこし照れながら、つまらないもので悪いね、と言う。旅の一部を切り取ったような品々は、どれも彼しか知らない、彼の旅の匂いがする。
「加奈恵さんは」
「家に戻ってる」
「寂しいな」
「そうでもないさ。明日には見送りに来てくれる」
 彼は旅は一人でするものだと頑なに決めていて、しかもいつも突然出立した。ふだんの彼は律義で真面目すぎるほどだったが、旅に出るときだけは、どんなしがらみも彼を引きとめることはできない。加奈恵が彼の放浪癖に愛想をつかすことはなかった。彼が加奈恵と暮らし始めたのは去年の今頃からだ。加奈恵は大学で彼と同じゼミに所属している。つきあい始めてしばらくして、両親とうまく行っていなかった加奈恵が彼の部屋に転がり込んだ。彼の部屋をそれまではよく訪ねていたのだが、さすがに足が遠のいた。先月久しぶりに訪れると、あたりまえなのだが加奈恵の持ち物が増えていて、すこし居心地が悪かった。
 実のところ出無精で旅行には興味がない。しかし彼の旅の話は好きだったし、彼が話すのを見るのが好きだった。だから彼が帰るたびに、旅の話をねだった。たいがいは差し入れを持って部屋に押しかけたが、バイト料が入ると居酒屋に行くこともあった。酒に弱くすぐに顔の赤くなる彼は、酔うと子どものように微笑みながら必ず言った。
「帰るところがあるのはいいね」

 とりとめのない話ばかりした。たわいない会話も穏やかな沈黙も嫌いではない。だが今はもどかしく、彼の表情やふとしたしぐさに胸が詰まった。
「……泊まってもいいかな」
「風邪をひいてもいいならな」
 彼は笑って言った。笑うと印象が変わる。整った、一見すると神経質そうな顔立ちが一気に崩れて、人懐こい犬のようになった。涙が出た。
「泣き上戸じゃなかったろ」
 彼はまた笑って、肩を抱いてくれた。彼の手は思いのほかあたたかい。夢でもいい。そう思った。
「明日、来てくれるんだろう」
「ああ」
「車に気をつけろよ」
「ああ」

 

 寒さに身震いした拍子に目が覚めた。身体を起こすと湿った咳が出る。彼の言ったとおり、風邪をひいたようだ。おまけにひどい二日酔いだ。息につよい酒気が残っている。肩に彼のダッフルコートが掛かっていた。彼の姿はなく、部屋はゆうべよりさらにがらんとして見えた。すでに昼を過ぎている。出棺には間に合いそうにない。立ち上がり、ダッフルコートを抱えて部屋を出た。
 ときおり吹く風はまだ冷たいが、陽射しは甘い金色をしていた。駅前でタクシーを拾い、直接火葬場に向かった。ちょうど棺が焼き場に入ったところだった。彼の母親が泣き崩れているのを、加奈恵が抱きかかえるようにして連れ出す。その後を肩を落とした父親がついて出てきた。目が合う。頭を下げた。父親も黙って会釈を返した。彼は父親似だった。
 細く高い煙突から、ゆっくりと煙が立ち始めた。雲のない一面の青空に、煙は高く高く上がってゆく。永いことその場に立ちつくして、彼の最後の旅を見送った。  

 

 

 

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*「旅」覚書*
1999/04/13〜1999/06/27
〜1999/07/15 推敲
1999/07/16 雑誌「小説JUNE」に投稿
2001/01/15 “Phosphorescence”UP