酒は憂いの玉帚 (さけはうれいのたまぼうき)
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「だいたい、言ってることめちゃくちゃなんだよな」
 酎ハイから入ってビールを一本、今は冷酒を口にしながら、相良は声を上げた。
「この業界でISO導入しない企業なんてないぜ」
 中手の金属メーカーに勤める相良と俺は中途組で、三年前の同じ日に入社した。年齢まで同じとあって、仕事以外でもなにかとつるんでいる。
「営業にばっかり『さらなる努力』を求めてないで」冷酒を一息に飲み下す。「おまえらも努力しろってんだ」
 相良の愚痴を聞くのは苦痛ではなかった。感情を露にした彼を見るのは、特権であるような気すらしていた。勝気な感じの目元や、しかめた眉に色気がある。すっきりした顎から皮膚の薄い首筋の線に、つい目を奪われる。我ながら不純な目で友人を見ている。相良はいいヤツで、いい友人だ。ただ俺は相良に、違う意味でも惹かれている。こうして二人で飲むたびに、下心が疼くのを抑えるのに苦労する。
 普段の相良の酒は明るい。肴を楽しみながら、陽気に飲むのが常だ。深酔いするほどは飲むこともなかった。相良はさっぱりとした気性の、人好きのする男だ。
 不況からくる業績不振にISOの制定が重なって、俺たち営業はここ何カ月かほとんど休日返上して働いている。愚痴が出てしまうのはしかたがない。
 業務の流れと明確な品質目標を明らかにするという、ISOの求める社内整備はこれからの企業には必須になるだろう。だが整備するまでが一苦労だ。とくにうちのような中小企業では、日常の仕事を捌くだけで手一杯で、人手を割き本腰を入れて取り組むのは難しい。準備は始めたものの、重役連中は早々と認証を諦めた。
 営業がいくら取引先の担当者との間に信頼関係を築いていたとしても、上の意向に逆らうことなどできないのだ。
「悪いな、ISOの認証を受けてる会社としか取引しない規定になったんだ」
 そう言われてしまえば、食い下がることはできない。
「ああ、もう、やってらんねぇ」
 相良が新しい酒をグラスに注ぐ。蜜のような光沢のある酒が、照明にきらめいた。相良の口からあけすけな本音を聞くのは初めてだ。来年で俺たちは二十七になる。このままでいいのかという焦りがある。何より、俺自身の中にあった、会社や仕事に対する何かが、憑物が落ちるようにすっぱりとなくなってしまった。
 相良がグラスを急角度に傾けるのを眺めながら、子どものころは昆虫博士になりたかったんだよな、などととりとめもなく思い出した。俺は山間の小さな町で育った。じりじりと肌を焼く真夏の陽射し。走り回って火照った足を、澄んだ川の流れに浸す。ゲンゴロウ、アメンボウ、カエルの卵。心地よい風が髪をかき乱す。波打つ草はら。見上げる空の高さ。居酒屋の喧噪の中で一瞬、俺は泣きたいほどつよくあの風を懐かしんだ。
 重圧だらけの生活で、俺にとっての相良は澄んだ川のような、心地よい風のような存在だった。彼への気持ちは、懐かしい日々への憧憬に似ている。
 相良が冷酒を追加する声で、ふと我に返る。「おい、ほどほどにしとけよ。明日――」
「明日は日曜だろ」
 挑むような目で見つめられて、どぎまぎした。そう、明日は日曜日。しかもちゃんと休める日曜日だ。
「ごめんな。みっともないとこ見せて」
 ふいに気弱く微笑まれて、さらに動揺する。いや、と言うのが精一杯で、動揺を隠すために自分のグラスに口をつけた。
「もうぬるくなってるだろ」横からグラスを攫われる。新しいグラスにビールを注がれた。相良が心持ち、俺のほうに身体を寄せてくる。酔いで平衡感覚を失っているだけだ。わかっていても、俺をうろたえさせるのには充分だった。
 逃げるように飲んだ。場を切り上げるのが怖かった。店を出て、それから?  あるていどの年齢を過ぎてからの恋というのは、学生時代のものとは違う気がする。歳をとるごとに、自分の力でできることとできないことの区切りが明確になる。そうやって、どんどん身動きが取れなくなっていくのだろう。相良は特別な男ではなかった。俺と同じしがないサラリーマンで、酒を飲んで愚痴を言って。そんな相良が好きだった。
 現実に相良をどうこうしたいという気持ちは薄い。淡い夢のように彼に焦がれていた。それで充分だと思っていた。下心は、夢の続きのようなものだ。強風が吹くとミニスカートの女に目がいってしまう。そんなものだ。
 でも、と思ってしまうのは、酔っているせいだろうか。でも、もしかしたら、相良だって。真剣なものでなくていい。酔った勢いでも、一度限りでも。そうすれば、自分の視界になにか違う風景が見えるのではないか。そんなことを考える。それこそ都合のいい願望だ。可笑しいな。酒は憂さを掃き捨てるホウキだなんて言うけれど、俺の憂さは積もるばかりだ。
 相良が俺を見つめているのに気づいた。
「なんだ」
「おまえ、お人好しだな」
 白い歯を見せて笑う。酔っ払いとは思えないさわやかさだ。その好意的な笑顔は、俺に罪悪感を抱かせる。俺はいいヤツでもお人好しでもない。
 ネガティブな欲望を持て余しながら飲んでいたら、思いがけず回ってしまった。視界の端がぼやけている。まっすぐに立ち上がる自信がない。また一息で酒を飲み干している相良を見た。そういえば、相良とは晩酌ていどの酒しか飲んだことがない。こんなに本格的に、肴もそこそこに飲み続けるのは初めてだった。愚痴は一段落したもののまだ眉間に皺を寄せていて、飲み始めたときと同じピッチでグラスを空けている。
「……おまえ強いな」
 ふっと表情を和らげた相良に見とれる。声は遠くから聞こえた。「俺さ、大学のころはウワバミって呼ばれてたんだ」  ウワバミ。ウワバミね、ああ。がっくりして、よけいに酔いが回った気がする。
「大丈夫か」
 会計を済ませて外に出るまでは、かろうじて自力で立てた。相良はへたりこんでしまいそうになっている俺の腋に腕を回すと、身体を支えてくれた。俺より細身で背も低いのに、けっこう力がある。これなら押し倒してもぶっ飛ばされて終わりだろうな。自虐的なことを考えてみたが、慰めにはならなかった。
 相良の肩に頭を乗せる。整髪剤とコロンと、汗のかすかな匂い。それと会社の匂いがする。
 脚の骨がなくなったみたいに、くにゃくにゃとして頼りない。みっともない。一瞬でも酔わせてナントカなんて汚いことを考えたバツか。そんなことを思いながら、腕はしっかり相良の腰に回っている。
 まあ、これくらいはいいよな。
「眠るなよ」
 覗きこむようにして顔を寄せてくる。大丈夫と言おうとして顔を上げた。唇にあたたかい感触がふれる。感触はちゅ、という小さな音を立てて離れた。
 夢を見てるんだろうか。
 ほら、ちゃんと歩かないと置いて帰るぞ。相良は笑いながら言うと、俺の身体をぐいと引き上げた。
 心地よい風が草はらを吹き渡る。
「……夢だろ、これ」
 相良は快活に答えた。
「さあな」

 

 

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*「酒は憂いの玉帚」覚書*
2002/07/10
2002/09/23〜2002/10/03
2002/10/03サイト“BOY'S LOVE”に投稿
2004/02/15 “Phosphorescence”UP
2004/04/05〜2004/04/09
2004/04/09 加筆修正再UP