灯火の家(ともしびのいえ)
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 父が心筋梗塞で急逝したのは、やっと風の涼しくなった秋口のことだ。まだ五十六になったばかりだった。母は俺が中学生のときに亡くなっており、俺は祖父の代に建てた古い平屋に独り取り残された。この春、就職を機にアパートを借りて独り暮らしをするつもりでいたが、ちょうどそのころ父が狭心症の発作を起こした。父は心配しなくていいと言ったが、とくに引っ越しを急ぐ理由もなかったので就職後も父と暮らしていた。
 中学教師をしていた父は学校で死んだ。職員室で出前の天ソバを食べて、食後のお茶をすすっているときに、湯飲みを持ったまま机に突っ伏した。机に額をぶつけたときにはもう心臓は止まっていただろうと、死亡確認をした医師は言った。苦痛はなかったでしょう。そう言われて、涙が出た。遺体を見たときすら、どこか他人事のように感じていたのに。苦しまずに済んでよかった。泣きながら、そう思った。
 父の葬儀には、思いがけず人が集まった。同僚の教師たちと、驚くほど多くの、父の教え子たち。親戚はごくわずかで、ほぼ初対面の人間ばかりだ。つきあいはほとんどなかった。俺は独りっ子だし、集まった親戚の中には、父と直接血縁のある人間はいなかった。遺産がどうという話にもならず、葬儀は淡々と執り行われた。弔問の客も途絶えると、奥で親戚たちと仕出し弁当を食べた。もともと父と付き合いのある人間はすくない。自然と世間話になる。さざ波のような話し声に、抑えた笑い声が混じる。俺もそのほうがいい。湿っぽいのは苦手だ。

 

. 忌引休暇が終わり、明日からは出社する。すこしほっとしていた。やっと仕事にも慣れたころで、何日も休んでいると同期に取り残さるのではないかという焦りもあった。
 葬儀が済んでしまえば手持ち無沙汰で、父の部屋の片付けを始めた。しかし困ったことにちっとも進まない。勢いをつけようと軽く飲んでみたが、手が重くなったたけだった。父の部屋も持ち物も片付いてはいるが、それは使うことを前提にした整頓で、このままにはしてはおけない。まずは残す物と処分する物を選別しなくてはならない。
 父は、母の持ち物をどうやって整理したのだろう。鏡台や嫁入り道具らしい桐の箪笥は残っているが、衣類などは処分されている。母が気に入っていた物か、それとも父が気に入っていた物か、いくつかの小物がアルバムと一緒に樹脂性の衣装ケースにまとめられて、鏡台のある部屋の押し入れに蔵われている。鏡台のせいだろうか、その部屋は母が亡くなった後も母の整髪料や化粧品の淡い匂いが永く残っていた。時々その香が無性に懐かしくなる。
 尿意を感じて部屋を離れた。廊下はところどころ天然のうぐいす張りになっている。意識しなくても、音のしない場所を足が選ぶ。
 使い込まれて木目の浮いた縁側が、わずかに曇っているのに気づいた。そうだ、今日は雑巾がけをする日だった。すっかり忘れていた。父は畳を受け持ち、俺は板敷きの部分を任されていた。台所と縁側だ。男所帯だからと言われないようにと、父は家事にはうるさかった。炊事も洗濯も分担して、家の中はつねに清潔に保たれていた。
 父は背が低いのに猫背ぎみで、服のセンスも、ひどくはないがお洒落なナイスミドルにはほど遠い。母が死の前年に贈ったカシミアのコートを、袖口が擦り切れても着続けていた。
 洗面所の棚に、父の愛用の育毛剤のボトルを見つけた。いつもそこにあって、あることすら意識していないほど自然だったそれを、俺はまじまじと見つめた。四十を過ぎたころから生え際が危なくなってきたことを、父は口には出さないものの気に病んでいた。高いからとケチケチ使っていた、もう使われることのないボトルを手に取ると、まだ三分の一ほど残っている。気の効いた話をできる人ではなかった。唯一饒舌になるのは、数学の話をしているときだけだ。
 家の中が、がらんと広い。一軒家とはいえ平屋で、父と暮らしているころは手狭に感じていたのに。父の部屋と仏間以外は暗いままだ。父と二人のときもそうだった。なのにどうして、こんなに寒々しい気持ちになるのだろう。
 月は陰っていないのに、さらさらと雨が降り出した。庭が見えるように仏間の障子は開けたままにしてあった。風はないが畳が濡れてはめんどうだ。しかし足が動かなかった。ぼんやりと縁側に佇んで、庭を眺めた。月明かりに白々と浮かぶささやかな庭には、家庭菜園と、いくつかの盆栽がある。休日には父は庭にいることが多かった。テストの採点や書き物に飽くと、庭に出る。無趣味だった父の唯一の息抜きだった。父がとりわけ大切にしていた小さな白木蓮は、花の時期にはまだ遠い。永く丹精して、昨年ようやく花をつけるようになった。せめて花の季節まで生きてくれればと思ったが、思っても詮無いことなのですぐにやめた。白木蓮は母の好きな花だと知ったのは、通夜の晩だ。母の弟の妻だという女性の口から聞いた。
 ふと目をやった垣根の向こうに人影を見つけてぎくりとした。くすんだ橙色の庭灯のそばに、小柄な若い男が立っていた。スーツに薄手のコート、手には鞄とプラスチックの書類ケースをを抱えている。どちら様ですか……と口にする前に、見覚えのある顔だとわかった。だがなかなか名前が出ない。
「久しぶり」
 男の唇は雨で濡れている。
「……仁木か」
 男――仁木章吾はかすかに微笑んだ。

 

「来てくれて、親父も喜んでるよ」
 そう言うと、仁木は弱々しく首を振った。
「今日、聞いて……居ても立ってもいられなくて。家の前まで来て、こんな時間に迷惑だって気づいて」
 仁木はうつむき加減のまま、ぽつぽつとそんなことを言った。仁木は父の教え子で、何度かうちに泊まったことがあるがとくに親しかったわけではない。だが腕を引くようにして家に上げた。もともと俺は物怖じしないタイプだったし、父が亡くなってから今日まで、人の出入りが多かったわりには同じ言葉を繰り返すだけで過ごしたから、すこし人恋しくもあった。仁木は高校を卒業したあと、他県に就職した。去年まで社員寮に入っていたのだが、春から支社のあるこちらに戻ってきたという。現在は会社近くのアパートで暮らしている。
「なんか変わったな」
 中学時代の仁木をはっきりと思い出せないまま、調子よく俺は言う。
 照れたように目を伏せた仁木は少年のような童顔だったが、俺にはない落ちつきを持っていた。就職していっぱしの大人になったつもりでいたが、つい半年前まで学生だった自分とは、やはり違うと思った。
「安達は変わらないな」
「そうか?」
 遠慮する仁木をなかば強引に仏間に通し熱い緑茶を支度して戻ると、仁木はまだ手を合わせていた。
「悪かったな、こんな時間に。寝てただろ」
「いや、親父の荷物の整理してたから。参ったよ。どこから手をつけていいかわからなくて」
 あらためて仁木を見ると、コートの肩に模様のように雨の跡がついていて、髪も濡れている。顔色が悪いのは父の死のショックだけではないのかもしれない。
「風邪ひくだろ。着替え貸すから、入ってこいよ」
 今度は追い立てるようにして風呂場に連れていく。
「懐かしいな」
 脱衣所を見渡して、仁木が呟く。
 仁木が風呂に入っている間に居間に小さなハロゲンヒーターを運び、濡れたコートをハンガーにかけて長押に引っかける。寒がりの父は秋風が吹くとすぐにこのヒーターを押し入れから出していた。お茶を入れ直して、貸すと言った着替えを用意していなかったことに気づいた。慌てて箪笥からスウェットの上下を出して脱衣所に向かう。
 まだ浴室だろうと軽く声をかけただけで引き戸を開けると、仁木はもう上がって髪を拭いていた。
「あ……これ、着替え」
「ありがとう」
 ごめんと謝るのも妙な気がする。目を伏せたまま着替えを置いて脱衣所を出た。目の端に、仁木の苦笑が映る。「いまさら」と思っているのだろう。大人の男になっても、仁木の身体は薄っぺらかった。あの夜、ケンカをして補導された仁木の肩には大きな青アザがあった。「痛くないのか」と尋ねると「平気」と素っ気なく答えた仁木の横顔が、瞼によみがえる。
 あの夜、俺はもう一度、仁木に「痛くないのか」と訊いた。そのときも仁木は「平気」とだけ答えて、シーツを握り締めた。
 まだ湿った前髪を無造作に上げて額を見せる仁木は、ひどく男っぽく大人びて見えた。ちゃぶ台を挟んで向かい合うと、なんだか顔が上げられない。
 熱く濃く淹れたお茶を啜ると、仁木の唇にほっとしたような淡い微笑が浮かぶ。しかしそれはすぐに消えてしまった。
「これから……ここで独りで暮らすのか」
 ため息のような密かな声を、危うく聞き逃すところだった。
「ああ、しばらくは。通勤もさほど不便じゃないし」
 努めて明るく言ったが、仁木は乗ってこなかった。静かにうつむいたままだ。
 湯飲みに目を落としたまま、仁木はおずおずと話し出した。
「うちの親父、二年前に死んだんだけど、酒ばっか飲んでたから永いこと肝臓悪くて、死んだときはああやっとかって、そんな風にしか思わなかった」
 考え考えのように話す仁木の声は、ふしぎと心地よい。昔の仁木はつねに不機嫌で単語だけを投げ出すように話した。
「俺冷たいのかなって、ちょっとショックだった。けど……先生が亡くなったって聞いて、なんかすごく……なんていうかな」
 声が揺れる。仁木はしばらく無言で、自分の中に起こった感情の大波をやり過ごそうとしていた。
「……遺品整理してたのか」
 仁木は声の調子を変えた。忙しなく瞬きを繰り返し、自分を立て直そうとしている。泣けばいいのに。そう思った。我慢なんてしなくていい。
「うちの親父趣味とかなかったからさ、何残せばいいんだか」
「無理に今処分してしまわなくてもいいんじゃないかな」
「ああ、俺もそう思ってた。親父は物持ちいいから、服とか、すごく丁寧に着てて、ポイと捨てちまう気になれない。けどそんな上物でもない上に十年とか着てたのを人に譲るわけにはいかないしさ。卒業アルバムだって」
「アルバム……懐かしいな。無くしちまったけど」
 仁木は小さく息をつく。
「家飛び出すみたいにして社員寮入ったから、荷物なんてほとんど持ち出せなくて」
「親父、アルバムだったら全部持ってるからから、卒業年のやつやるよ」
「いいよ、悪いし」
「うちで眠ってるよりずっといいって」
 さっと立ち上がると、遠慮の言葉を口にする仁木を残して父の部屋に向かった。主を失った部屋はひんやりとしていて静かだ。卒業アルバムは本棚の一番いい場所に年度順にきちんと並べてあったので、すぐに見つけることができた。
「いいのか、本当に貰って」
「ああ」
「ありがとう」
「気にすんなよ。それより、腹減ってないか」
 急に気恥ずかしくなって台所に逃げた。昼に隣家の小母さんが持ってきてくれたちらし寿司と冷酒、それとグラスを二個持って居間に戻る。固辞する仁木に、独りで食べても味気無いしなと言うと、ちょっと黙ってから首肯いた。二人向かい合って、薄切りハムとグリンピースの入ったちらし寿司を食べた。
 酒が血の巡りを良くしてくれたおかげか、忘れていた記憶がよみがえる。
 中学時代の仁木は問題児だった。俺たちの世代は校舎の窓を叩き割ったり教室で乱闘をするような派手な行動はもう流行りではなかった。その分陰湿な面があったような気もするが、俺にとっては校内暴力もいじめも他人事だった。教師の息子だということで、最初は警戒され遠巻きにされる。だが俺はその垣根を飛び越えるのが得意だった。誰とでも気安く楽しく接する癖が、自然に染みついていた。持って生まれた天性なのかもしれない。俺は適当に不満や窮屈さを感じながら、適当に楽しんで暮らしていた。表立って教師にたてつくやつらは、ずいぶんと要領が悪いように見えた。学校は違ったが、学校での仁木の様子は手に取るようにわかった。どこの学校にも、仁木のような生徒は一定数いたからだ。あまり学校には顔を出さず、登校しても教室には入ってこない。仲間とつるんではあてのないような足取りで校内をうろつき、いつの間にか消える。
「本当は生真面目なやつなんだ」
 父がふと漏らした言葉を思い出した。仁木はたしか、両親とうまくいっていなかったと聞いた覚えがある。離婚したとか再婚したとか連れ子だとか。よくある話だ。だから確かなことは思い出せない。
 仁木が警察に補導されても両親が迎えに来ることはなく、いつも父が仁木を引き取り家に泊めた。父が作った食事を三人で食べ、布団は自分で敷かせた。仁木は荒んだ表情をしていて、箸の使い方がむちゃくちゃで、いつもほとんど口をきかずに布団にもぐりこんだ。
 仁木がうちに泊まった何度目かの夜、たしか夏だった。夜中になっても空は淡く、なんとなく起きていると、障子が開いて月光とともに仁木が入ってきた。仁木は乾いた目をして、その夜、俺と仁木は秘密を持った。
 明け方に仁木は客間に戻り、朝にはいつも通りの仏頂面で食卓を囲んだ。三人で家を出て、仁木と父は並んで学校に向かった。
 ちらし寿司を食べる仁木を見ていたら、仁木は怪訝な表情になる。
「……何?」
「箸の使い方、直したんだな」
 仁木は苦笑した。笑うときに目を伏せるのは癖なのか、それとも喪中の俺への遠慮か。中学のころは笑顔など見たことがなかった。
「先生が直してくれたんだ。箸の持ち方と、あとペンの持ち方も。身につくまでずいぶん時間がかかった」
 グラスの中で密色に光る酒を眺めながら、仁木は何げない口調で言った。
「俺さ、自分ちの明かりを見るのが嫌いだった。明かりがついてるってことは、親父かおふくろがいるってことだったから。どっちも大概酔ってて、よく殴られた。俺も中学くらいからは殴り返してたけど。とにかく、家に明かりがついてるのを見ると、また出掛けたりして。あのころは気の休まる場所なんてなかったな」
 仁木が目を上げて俺を見る。あのころからは想像できないような穏やかな目をしていた。
「けどこの家の明かりを見るのは好きだったよ。先生と一緒に歩いて、この家の明かりが近づいてくるのが、すごく好きだった。安達がうらやましかった」
 もう数時間もしないうちに陽が昇るが、あのころと同じように客間に床をのべた。仁木は礼を言って布団に入り、俺の部屋に来ることなく朝を迎えた。

 

.  朝陽の中で仁木のすこし腫れぼったい目をしていた。永い永い夢を見ている気がする。しかしどこまで夢なのかわからない。廊下を渡って、ラクダシャツの上に寝間着姿の父が、顔を出しそうな気がした。いつも父と向かいあって食事をした座卓で、仁木と向かいあって食事をした。
「卒業してしばらくしてから、一度、すぐ近くまで来たことかあるんだ」
 仁木は箸を置くと「気味悪いよな、ごめん」と付け足す。
「いや……寄ってくれればよかったのに」
「窓に明かりが灯っていて、あたたかそうだった」
 祈るような声で、仁木は言った。先週までなら、仁木の言わんとすることを、俺は感じとることはできなかっただろう。けれど今はわかる。振り返って見る、家の明かり。窓に明かりが灯っている。ただそれだけのことが、どうしようもなく愛しい。
「ごめんな、あのとき……俺は、おまえと……先生と、家族になりたかった」
 ごめんなと仁木は繰り返し、俺はただ首を振った。仁木は泣き、俺は立ち上がると仁木の隣に腰を降ろして、肩に腕を回した。
「ずっと、謝りたかった」
「なんで謝るんだよ」
 仁木は答えなかった。俺の肩に顔を埋めてさめざめと泣いた。仁木にふれて、俺はあの夜の仁木をまざまざと思い出す。体温が低く、密やかな息づかいさえなければまるで人形を抱いているようだった。
 今どうしてる? 家族はいるのか? そんなことを聞いてみたくもなったが、結局口にはせずじまいだった。
 門扉まで見送った。空気が澄んで、あたりは白々と明るかった。息が白い。ありがとうと言うと、仁木は深々と頭を下げた。これで最後なのだとわかった。もう仁木は、ここには来ない。背を向け歩きだした仁木を追いかけて、腕を掴んだのは無意識だったが、その後のことは、明確な意志を持っておこなった。仁木の唇にふれた。泣いた後だというのに、仁木の唇は冷たかった。離れると、仁木はやさしい目をして微笑んだ。
 仁木が角を曲がって視界から消えてから、玄関を振り返る。朝もやに煙る家は、見知らぬ家のように見えた。食卓の明かりが灯いたままだ。そのぼんやりとした明かりを見ていると、なぜか涙が出た。

 

 

 

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*「灯火の家」覚書*
2010/06/08 “Phosphorescence”UP