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「またジム行ってきたの」
 弓削が靴を脱ぎ終わらないうちに、玄関先まで迎えに出てきた八束が言う。蠱惑的なアーモンド型の目が、からかうように弓削を見つめている。ざっくりしたセーターにジーンズ姿の八束は、服装のせいか前髪を無造作に下ろしているせいか、高校生のように見えた。八束は弓削より二つ年下の二十八歳、おまけについ半年前まで銀行員をしていたというのに。
「ああ。思ってたより早く上がれたらな」
「マッチョにでもなるつもり? なんか最近はまってるよねぇ」
 八束は笑いながら、弓削に背を向けキッチンに向かった。弓削は内心ひやりとしていたが、むろん表情には出さない。出したとしても、八束相手であればいくらでも言い逃れできる。そんな余裕が弓削にはある。
 八束はこの春に五年勤めた地方銀行をリストラされ、現在は無職だ。リストラとは言え依願退職であったため退職金は増額されたし、雇用保険も蓄えもある。このマンションは弓削のもので、八束は退職してから移り住んできたのだが、家計はすべて折半していた。
 着替えをして食卓につくと、八束は鼻歌を歌いながら夕食の仕上げをしていた。勤めをやめてからの八束は溌剌としている。表情が豊かでもともと年齢より若く見える八束だが、以前よりさらに若々しくなった。
 八束は最近料理に凝っていて、今日も食卓には二人では食べきれないほどの料理が並んだ。皮から作った餃子だけでも、具を変え調理法を変えたものが三種類、彩りよく盛られている。スープに、豆板醤の刺激的な匂いのする炒め物。弓削は苦笑した。
「太らせる気か」
「シム行ってるんだから、これくらい平気だよ」
 八束と知り合ったのは三年ほど前だ。当時の八束は銀行勤めのストレスでずいぶんと参っていて、そうでなければ初対面の男とホテルに行ったりはしなかっただろう。つきあい始めてわかったことだが、八束はひどく身持ちの固い男だった。俺は運がいい。そのときはそんなふうに考えた。八束は見栄えも性格もよく、セックスの相性もよかった。
 上機嫌の八束と向かい合って手料理を食べながら、弓削の心はつい先ほどまで抱きあっていた男のもとへ戻っていた。関係を続けて二カ月になる。最初は一回限りの相手だと割り切っていたのだが、ずるずると続いていた。夜の仕事をしているその男は、八束と同い歳だ。十代のころから躰を使って商売していると言っていたが、しかし崩れた感じが微塵もない。男は、弓削に同居している相手がいることも知っている。短い情事の後、その痕跡をシャワーで洗い流してから部屋を出ていく弓削を、いつも黙って見送った。次の約束はしない。
 弓削は密かに自嘲した。どうも古風なタイプに惹かれてしまうようだ。いつも長くは続かない。新しい相手を作って、弓削のほうから関係を壊してしまう。八束と三年続いたのは、ひとえに八束の疑うことを知らない性格のおかげだ。
「まだ三年なんだよね」
 いつかそんなことを八束が言い出して、弓削は驚いた。三年。一人の相手とつきあうには、とてつもなく長い時間だ。もう三年も経ったのかと、弓削は恐ろしいような気持ちにかられた。
 風呂を使ってからキッチンを覗くと、八束はまだ片付けをていた。
「そんなこと明日すればいいだろ。来いよ」
「勝手ばっかり言って」
 八束はちょっと不服そうな怒った顔をしながら、それでも弓削に従った。八束がそんな扱いを内心では嫌っていないことを弓削は知っている。八束は純粋で単純だ。そんなところに惹かれた。しかし愛しむのと同じくらいつよく、八束を裏切ることに暗い悦びを感じている。八束はまったく性善説を信じているような人間で、銀行勤めで胃に穴が空く思いをしたというのに、根っこの部分では人間には裏の顔などない思っているようなところがある。そんな能天気なおめでたさに、弓削は時々ひどくいらつく。心に秘密のない人間などいるわけないのに。
「俺もジムに通おうかと思ってるんだ」
 弓削の肩に頭を乗せるように寄り添って、八束が言う。弓削はなかばまどろみながら、肩にかかる八束の髪を指で玩んでいた。情事あとのたわいないスキンシップを、八束はいつも求めた。
「次の仕事見つけるまでに、身体なまるといけないし」
 八束は躰を起こすと、弓削に覆いかぶさるように顔を近づけた。
「今日さ、チラシが入ってたんだよ。駅前に新しいスポーツクラブが出来るんだって。行ってみようかな」
「いいんじゃないか」
 弓削はにやりと笑って言った。
「ただし、マッチョにはなるなよ」

 

 八束は翌日早速手続きに行ったらしく、帰宅した弓削にパンフレットと新調したトレーニングウェアを見せた。そのようすは遠足前の子どものようだ。八束が学生時代にバスケ部だったことを、弓削はそのとき初めて聞いた。
 八束はジムを気にいったようで、弓削が帰宅してもまだ戻っていないようなこともしはしばあった。ジム通いをはじめてからの八束はいっそう快活になったようだ。
「ジムにいい男でもいるんじゃないか」
 そうからかうと、弓削よりいい男なんていないよ、と茶化す。
「それにしても、熱心に通ってるじゃないか」
「週三回くらいかな。早めに昼ごはん食べて出て、夜まで」
「長いな」
「泳いでるからね」
 ひと月もすると、八束のようすにかすかに違和感を感じるようになった。指摘できるほどの変化ではない。ただ、どこか八束は変わった。しかし八束は隠し事をできるタイプではない。男が出来たならなおさら、自分が気づかないはずはない。
「今日もジム寄ってくるの」
 玄関先で弓削を見送る八束が、ふいに尋ねる。
「ん……ああ」
「じゃあ俺も行って来ようかな」
 八束が目を細める。弓削にはそれが、挑むような表情に見えた。
「いいねジムって。弓削がはまってる気持ちわかるよ。俺も、クセになりそう」
 そう言って笑った八束を、弓削は初対面の男と対峙しているような心地で見つめた。胸の内に、冷たいものが落ちるのを感じた。
 心に秘密のない人間などいないのに。

 

 

 

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*「嘘」覚書*
2001/06/07〜2002/02/25
2002/02/25 “Phosphorescence”UP