薄闇
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 いつからだったろう、弟は僕を「兄さん」と呼ばなくなった。
 母は僕を身籠もるまで「役立たずの嫁だ」と父の両親にずいぶん責められたらしい。男は仕事さえしていればよいという古い考えの父は、たまに口を出せば妻ではなく両親の肩を持った。
 出産は無事に済んだものの母は体調を崩し、これでは育児などとてもできないだろうと祖父母は産まれたばかりの赤ん坊を母から取り上げた。体調は半年ほどで回復したが、祖母は母に復職を勧め僕を離そうとはしなかった。
 それから二年後に弟が産まれた。その頃には母も心身ともにつよくなっており、今度は赤ん坊を奪われることはなかった。長男を抱え込んでいた祖父母が次男にはさほど興味を示さなかったせいもあるかもしれない。事あるごとに跡継ぎだと祖父母は口にしたが、継ぐほどの財産も名前もない。ささやかな土地と古い家。祖父は教師で、父はサラリーマンだ。僕は祖父母が、弟は両親が育てることで奇妙なバランスを取ったまま、月日は流れた。
 僕が中学に上がる直前に祖父母が相次いで亡くなり、僕らはやっと普通の家族に戻った。しかし母の舅姑に対する恨みは根深く、彼らが死んだ後も母にとって僕は「奪われた子」であることに変わりはなかった。母は僕の中に「我が子を奪った憎い姑たち」の影を見ては苦しみ、僕も戸惑った。
 ただ弟だけは、兄さん兄さんと屈託なく僕に懐いた。そんな弟が愛しく、僕には唯一の慰めだった。しかし砂漠のオアシスのような存在だった弟も、中学生になった頃から様子が変わった。風呂はずいぶん前から別々だったが、部屋にすら入ってこなくなった。それどころか、僕と二人きりになるのを避けているようだ。それは両親が共働きの我が家では、とても難しいことだ。時折痛いほどの視線を感じる。憎まれているようなきつい視線は、鋭い針のように僕の皮膚を刺す。
 子どもの頃の弟は、身体つきは細いのに頬はふっくらと丸かった。大きな目には澄んだ光だけが映っていたが、高校に上がる頃からぐんと背が伸び体格もよくなった。鋭くなった目には影が射し、削げた頬は僕よりずっと大人の男の風情を漂わせていた。
 弟の目は熱い。その目に見つめられると、いたたまれなさを感じると同時に、熱で頭がぼうっとする。まるで遠火で炙られているような、鈍い痛みに身体が疼く。その炎にもっと激しく焼かれたい。だがそれを認めることは恐ろしく、僕は弟が僕を避ける以上に弟を避けた。
 僕が高校三年になった春、父の単身赴任が決まった。僕は予定していた志望校を急遽変更し、父の赴任先にある大学を受験することにした。父と良好な関係を築けているというわけではなかった。ただ父の無関心さは母や弟といるよりも気が楽だというだけのことだ。
 何より、弟から離れたかった。

 

 灰色の雲が空を覆う、寒い日だった。二年ぶりに帰った我が家はしんとして薄暗い。母は老人ホームに入居している実母の元へと出掛けている。弟は学校だ。誰もいない日を選んで、だが意識してそうしたことを悟られないように、慎重に日にちと時間を選んだ。
 父に頼まれた黒のスーツを不織布のカバーごと紙袋に入れると、自室を覗いてみた。母が時おり風を入れ掃除もしてくれているのだろう、部屋は清潔で、ただ机も家具も家にいたときのままにしてあるのに、がらんとして見えた。
 机の上に高校の卒業アルバムがある。こんなところに置いた覚えはなかった。たしかクロゼットの下段に、他のアルバムと一緒に蔵っておいたはずだ。布張りの表紙にしばらく手を乗せて、そっと開いてみた。卒業生一人一人が、四角い枠に切り取られ並んでいる。四年前の自分の顔は、今とたいして変わらない気がする。内向的で口数すくない、人の目を見るのが苦手な少年だった。髪は今よりずいぶん短い。意識して伸ばしたわけではないが、すこし長めのほうが似合うように思う。
 一年生だった弟の姿が、体育祭の写真の中にある。応援合戦の時のもので、皆揃いの鉢巻きに学ラン姿だ。弟はカメラから遠い列に並んでいて、その横顔は小指の爪の半分ほどの大きさだが、ひと目で弟だとわかる。
 アルバムを閉じ目を上げると、窓の外はいっそう暗くなっている。
 就職は向こうで探しているので、またしばらくはこの家に戻ることはないだろう。もしかしたら一生。
 クロゼットを開け、ずしりと重いダンボール箱を引きずり出すと、中身をすべて出し、一番底にある厚いアルバムを手に取る。そこには僕が六歳から十二歳までの写真が収められている。祖母に抱っこされている小学生の僕。その隣で、固い表情の母。屈託なく笑う弟。
 高校の卒業式が済んですぐに、僕は父の赴任先へと引っ越した。式の後、僕はどこにも寄らずに独りで家に戻った。母は他の母親たちとランチに行った。父は先週赴任先に出発しており、弟はまだ帰っていない。
 僕の荷造りはもう済んでいて、あるのは数日分の着替えだけだ。もう二度と着ない制服を脱ぎ、いつものようにハンガーに掛けておく。
 ドアの開く音には気づかなかった。息を飲む気配がして振り返る。振り返る前から、誰がいるのかわかっていた。なぜ息を飲んだのかも。弟は、僕の左肩に後ろにある花びら形の痣を見たのだ。そしてそれが痣ではないことに気づいたのだ。
 弟は僕が、誰かにそこへのくちづけを許したのだと思っている。たしかにその通りだったけど、弟が思っているようなことは何もない。
 くちづけをしたのはクラスメイトの少年だ。きのう呼び出されて、彼の部屋ですこし話をした。ずっと好きだったと言われて、ありがとうと答えた。どう続ければいいのか迷っていると、彼は察してくれた。伝えたかっただけなんだと、そっとうつむいた。
 彼は僕の引っ越しを知っており、記念を残してもいいかと尋ねた。ほんの数日でいいから、僕の印しを持っていて欲しいと頼まれた。
 きっと、他の人のことを考えてしまう。
 僕は彼にそう言い、それでもいいと彼は言った。彼が僕にふれたのは、小さな跡の残ったその場所だけだ。
 裏切られたような、傷ついた表情をしているおまえに、言ってやりたい。
 くちづけされたとき、僕はおまえのことを考えていたよ。
 だからこれはおまえがつけたのと同じなんだ。そう言ってやりたい。
 だが実際には何も言わず、着替えを詰めたバッグからシャツを取り出して着ると、弟のそばを通って廊下へ出た。弟はいつものあの目で僕を見つめていた。
 それから二年、弟には一度も会っていない。

 アルバムを紙袋の端に滑り込ませると、箱の中身をもとに戻し一番上に卒業アルバムを乗せた。クロゼットを閉じて部屋を出ると、階下へ降りまっすぐ玄関に向かう。
 弟が、ちょうどスニーカーを脱いでいるところだった。上がり框に腰掛けうつむいた弟の、広い背中。焦げ茶色のパーカーの肩や短い髪に、キラキラと水滴が光っている。とうとう降り出したらしい。紙袋、どうしよう。そんなことをぼんやり考えながら、学校はと尋ねる。振り返った弟は、ずいぶん永く黙っていた。返事を諦めたころ、抜けてきた、とぽつりと呟いた。
 もう行くのか。うん。会話はそれで終わった。弟が横に一歩移動して道を空け、僕は弟が立っていた場所を通って玄関に立つ。ずいぶん背が伸びていた。懐かしい視線を、二年前より高い位置から感じる。
 もう、帰ってこないの。
 背後からの声はとても密かで、空耳だと思った。玄関の脇にある明かり取りの細長い窓の向こうは暗い。僕は動かない。視線も動かさない。肩の後ろに、弟の体温を感じる。
 やがて弟は、何かを諦めるように小さくため息をついて、僕の肩に額を乗せた。同時に、僕の腹のあたりに手を回す。
 弟の体温を感じながら、ため息の意味を考える。弟が諦めたのは、僕と同じか、それとも逆か。
 僕は弟の手に掌を重ねた。このまま時が止まればいい。月並みな言葉だが、泣きたいほどそう思った。
 このまま時が止まればいい。

 

 

 

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*「薄闇」覚書*
2007/01/22
2007/04/25-2007/05/05
2007/05/06 “Phosphorescence”UP