目の端に涙が浮かぶ。拭うなんて考える間もなく、また込み上げてきたものを吐き出した。
昨日の夕食だったのか昼食だったのか、今朝の朝食だったのかは知らない。また込み上げてきて、吐いた。電信柱に手をついてなんとか自分を支える。でないと立っていられなかった。
涙のせいで視界が滲む。冷や汗が出てシャツが肌に貼り付き、気持ちが悪い。脳がぐらんぐらんと回転し思考が歪んだ。背筋がぞくぞくする。
―――――死んだ。
テレビに落としただけだったのに、死んだ。しかもあんな姿になって。
知らなかった。あんな風になるなんて知らなかったんだ。ちょっと消すだけ。邪魔だから、ゴミ箱に捨てるみたいにテレビの中に落としちゃおう。その程度の認識しかしていなかったのに、あんな風に。
思い出すとまた吐き気が込み上げてきた。口元に手を当てて抑える。代わりに涙がぼろぼろこぼれてきたけれど、耐えた。
ただちょっとテレビの中に“入れた”だけだった。“力”を得て、できるようになって。あんな風になるなんて。
「う、うう」
体が震える。
自分は刑事だ。死体はある程度見慣れている。だけど、“自分が手を下したもの”を見るのは初めてだった。だから驚いたんだ、とても。うるさく喚いて、頭に来たから痛い目を見せてやろうと思ったら悲鳴を上げて落ちていって、すっきりしたと笑ったはずなのに、真実を目の前に突きつけられたらとても驚いた。
「―――――ッ」
きつく目を閉じて堪える。
退屈な人生だった。
これからもきっと退屈な人生なんだろう。
そんなとき得た力だった。初めて使った夜はこうなるのかと思うだけで結果は知らないでいた。消すだけで、死ぬだなんて思わなかった。背筋をまたぞくぞくと駆け抜けていく。知らなかった。レクチャーなんてなかった、実践して初めて知ったんだから。
呼ぶ声がする。怒っている。
必死に目を開けてすみませんと返す。目を開けて見れば顔は涙にまみれて、手と口元は汚れてひどい有り様だった。でも、

あの死体ほどじゃない。

よかったんだろうか。
この力を得て、本当に。震えが止まらない。呻きが口から漏れる。人々のざわめきがうるさい。ブルーシート、赤いカラーコーン、それらを繋ぐ黄色と黒の細い棒。パトカー。
殺人現場。
犯人は自分。犯人は、足立透。
犯人は、足立、透だ。
前から組み始めた上司。低く呆れるように言う声がする。呼ばれて、行かなければ。刑事なのだから行かなければ。ついていかなければ。ここは殺人現場で自分は刑事。上司が指示をする。なら、動かなければ。
よろよろと動き出す。
けれど、自分は、犯人だ。殺人犯、足立透。
わからない。
この力は得てよかったものなのか。二本の足が震える。がくがくと立っていられない。けれど行かなければ。自分は刑事だし呼んでいるじゃないか。けれどわからない。わからない、わからない。
別に“あの女子アナを殺してしまった”のがショックなわけではない。“知らずに殺人を犯してしまった”のが、おそらくは。
自分は聖人君子じゃない。
用なしになった女子アナを自分の中であっさり切り捨て、怖い思いでもすればいいと言いはした。実際遭わせてやろうともした。けれど、殺す気なんてなかったし、あのときはただテレビの中に落としただけだと思っていたのだ。本当に入れるんだと笑いさえした。
死ぬ、なんて、思ってなかった。
走り出す。もつれそうな足で。途中で三人の高校生らしき子供たちが自分を見ていた。たぶん、あの子供たちは自分を情けない刑事だと感じているだろう。上司の言った通り、まだ新米のつもりでいる駄目刑事だと。
本当は、殺人犯なのに。
走る、走る。今にももつれ、転げそうな足取りで。
テレビの中に入れるのは知っていた。マヨナカテレビの噂を知ったとき、画面に触って。偶然の産物。あるいは気付かなかった、一種の奇跡だ。そのときも声を出して笑った。面白いことになると。
……けれど、人を殺すことになるなんて、思いもしなかった。
まだ、時間は日中。周囲は明るいのに行く先が見えない。暗くて、あの。
女子アナを落としたテレビ画面のようだ。
もつれる足で駆ける。
その先が、濃い霧に閉ざされていくような気がした。



―――――からをえた



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