「堂島さーん、どーじまさーん」
名を呼びながら足立は階段を下っていく。堂島さん、堂島さーん。時計の針が瞬間にかちん、と動いて日付が変わった。
「堂島さん、甥っ子くんが部屋の準備してくれましたよ。ほら起きて、立って、行ってください。辛いかもしんないすけど」
缶ビールを空ける堂島のペースを横目で見ていた足立は自主的に呑む量をセーブしていた。ペースと言っても堂島は見た目に反して酒に弱いからあまり、関係はないのだけど。久々の帰宅でなにか思うところがあったのか。それともなにもなくて久々の自宅の雰囲気にただ気が緩んだだけか。
(……どっちにしたって家が関係してるんだ)
自分には関係ない、と足立は思う。この人の“家”に自分は関係ない。血のつながりなんて有り得ない、単なる“お客さん”だ。
家族なんて。
思いつつ口と体を動かす。堂島さん、どーじまさーん。起きてくださいって、またすぐ寝ちゃっていいですからー。ソファに崩れ眠ってしまった堂島の傍まで足立は歩いていく。水を用意しようかとちらり、目線を台所に投げたがあきらめた。
「堂島さん、ほら、」
菜々子ちゃんも寝ちゃいましたよ。ちゃんと着替えて自分の部屋で自分の布団で寝ました。
大事な大事な娘の名前を出して効果を狙う。無条件にでれでれと甘やかすわけではないけれど、堂島は愛娘であり忘れ形見の菜々子には圧倒的に弱い。大事なのとそれと、どう接していいのかまだ上手くわからない節があるようだ。
(自分の子供なのに。自分で作ったくせに、変なの)
原因はわからないが亡くなったらしい奥さんにずっとまかせっきりだったのかな、と足立は思った。だから、無くしたら。
母の手を無くしてしまって途方に暮れたのは、娘である堂島菜々子ではなくて夫の堂島遼太郎だったのかもしれない。妻は亡くなって、支える手は無くなった。そして彼らは途方に暮れた。
足立にはそういうことはよくわからない。家庭はそれぞれで、足立の家庭環境は堂島家とは違っていたと、それだけのことだ。
「堂島さんって、ほらあ。起きてくださいよ、こんなところで寝たらだめですって」
ソファの傍まで歩いていく。堂島は実に気持ち良さそうに眠っている。えっと、どうしよう。起きないんだほんと、この人。
仮眠とかのときにはすぐ起きるくせに泥酔しちゃうとだめ。鬼の堂島がこんなでいいのかな。稲羽署の誰かが見たらすごくびっくりしてそして―――――、
考えて足立は思った。別に特別じゃない。自分は別に、特別じゃない。
飲み会とか、田舎でだって、田舎の警察だってあって……そこでこんなになってるかもしれないじゃないか。だから。
自分は特別じゃない。
自分だけの―――――じゃ、ない。
押し黙ってソファの前でしばらく膝をついて思考をめぐらせていた足立は動く。
「ほら、堂島さん」
だからなんだっていうのか。特別だなんて。特別だなんてそんな。特別だなんてそんな。そんな、そんなそんな。
そんなものを作ってしまうのは面倒くさい。
「堂島さん、いい加減に起きてくださいってばあ。僕ら明日もお仕事でっすよー。二日酔いはもう無理として筋肉痛は布団で寝ればいくらかましになるでしょうから、ねっ」
言って少しおかしくなった。いつもと立場が逆だ。世話焼きは堂島の仕事で。自分は世話を焼かれてばかりで。
おかしいの。
「堂島さ、」
堪えきれない笑いを含んだ声が途切れて千切れ、宙に浮く。視点が一度ぐるん、と。続けてぐるぐるぐる、と回った。天井、床、天井、床、蛍光灯、落ちた缶ビールの缶、グレイに近い黒。
堂島の甥に渡されたタオルやら着替えを全てばら撒いてしまい、足立はちゃちなジェットコースター体験に唸る。運動は苦手だ。
今のが運動だったかと言われると足立も少し首をかしげてしまうが。
それにしてもやたらと、熱い。
「―――――」
煙草と酒の匂い。せっかく甥っ子くんが布団を敷いてくれたのに自分が敷き布団になってどうするんですか。足立は下でまだ眠っている堂島へと声に出さずにささやいた。
寝ぼけただか酔ってだかいた堂島に道連れにされて、足立は床に転がったのだ。
この体勢からすると腕を引っ張られたか?推理してみるけれど、次の瞬間どうでもよくなる。なってしまったものは仕方ない。
「…………うわ、あ」
ちょうど堂島の胸元辺りに顔を置いた格好になった足立は、小声でそう零した。
どくん、どくん、と密着した距離での他人の鼓動は生々しすぎる。服と皮膚、その他諸々を経由しているのに直に触れているみたいだ。すり、と顔をすり寄せてみる。堂島のシャツが皺になって頬の辺りでわだかまるが気にしない。
息が。
苦しくなるくらい近い。
どくん、どくん、と音が鳴る。響きが伝わる。熱い。酔っているだけじゃない。この熱さはきっと堂島が持つ元々の熱さだ。
人に触れるのは本来苦手だ。肉体的にでも、精神的にでも。適当な距離を取って当たり障りなく上辺で笑って何事もなく、過ごしていきたい。だけど。
「……っ……」
眩暈がする。そう呑んでいないのに眩暈がして熱い。


このひとだからだ。


どこかで自分がささやく声がした。すんなりとその通りだ、と思った。
寝息が聞こえる。足立と違って逞しい、鍛えた体。鼓動はとても強い。すり、顔をすり寄せる。皺になるシャツ。緩めたネクタイ。ふ、とため息をついて足立は思った。
こんなに強く鼓動を鳴らしている人でも、弱い箇所がある?弱くて脆い、そんな箇所が。
軽く押したら根本から存在が崩れてしまうような。そんな点がある?どくん、どくん、どくん、どくん。
足立はゆっくり息を吐いて知らず舌なめずりをする。
鼓動。
心音。
こころのおと。
音なのに見せる。その人間の中味をあらわに見せつける。
誰のそれにも、自分のそれにもかけらも興味はなかったけれど、この音だけは聞いていたいと思った。ずっと聞いていたいと。
また顔をすり寄せて目を閉じる。すると音が深く、大きくなる。
もっとこの人にこの強い音で、自分を貫いてほしい。
足立は思って、周りに散乱したタオルのことも、着替えのことも、上にいる高校生の少年のことも小学生の少女のことも忘れた。ずっと。


ずっと、なんて有り得ないけれど出来る限りはこの音を聞いていたかった。この相手の中を、見ていたかった。
両目を閉じて耳を澄まし、聞いて、見ていたかった。
そうして。



―――――いつか誰もが知るものではなく、自分だけのものに出来たなら、それはもしかしたら、と。



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