だから、そのときはとても驚いたのだ。


「別にいいけど?」


それは前々から続いていた習慣だった。
サボりが見つからないように倉庫で二人パックジュースを飲んでいたとき、俺は気づかれないようにその人の横顔を眺めた。ぼんやりとした表情。オレンジジュースのパックがやけに肌色に映える。ちゅっ、とジュースを吸い上げる音が耳に響いた。
その日は暑い日だった。だったから、血迷ったのだと思う。
本当のことだけど口には出してはいけないことだとわかっていた。それなのに、蝉が鳴く中で口にしてしまっていた。
「足立さん」
「何?」
「足立さん」
「だからどうしたの?」
不思議そうにこちらを見上げた彼の目は、俺の顔を見てもっと丸くなる。なに、どうしたの、だいじょうぶ、彼が並べ立てる隙間に割り込んで、
「キスしてもいいですか」
ああ、やばいな、やっちまった。
こんなこと言ったら気持ち悪がられるに決まってる。男が男にキスしていいかなんてそんなのあるわけない。なんで口から出ちまったんだろ。もう取り返せないだろうけど、違うんだって、ただ真剣なんだってことは言っておきたかった。
みんみんと蝉が鳴く。ひとすじ首筋を汗が伝う。やってしまった。それを彼は、
「どうしたの?」
繰り返してそう、聞いてきた。
「え―――――」
「キスくらいなんでもないでしょ。僕はかまわないよ?」
「え……でも、男同、士、」
「ねえ、君」
結局何が言いたいの?と彼は言った。
「男同士だから後悔してるから取り消してくれって言いたいの?」
「違……っ」
「わかんないなあ。キスは男としたって女としたってキスでしょ?」
でしょ?と彼はつぶやいて、
「別にいいけど?」
そう、言った。
かあっと頭の芯が熱くなる。薄く開いた唇。俺が悪いんじゃない。俺が悪いんじゃない。だって別にいいって言った。ならしたっていいだろう。
腕を掴んで、顔を傾けて、齧りつくように。
頭の中はぐちゃぐちゃで何がなんだかわからない。熱くて、手から紙パックがぼたりと落ちた。まだ残っていた中味がストローを伝ってコンクリートに流れだす。ぴゅっ、と残滓が飛びだしてズボンの裾をオレンジ色に染めた。
みーんみーんみーん、蝉が鳴いている。
やっちまった―――――そう思ってぎゅっと閉じていた目を開ければそこには、


「―――――」


なんでもないといった風の彼がいた。
蔑まれたいわけでもないし、叱られたいわけでもない。泣かれたいわけでも。
だけど、こんな反応はされたくなかった。
「もういい? 一度でいいよね? じゃあ僕、これから外回り行ってくるから」
「あ……」
伸ばしかけた手は中途半端に宙に浮く。
「何? もう一回したいの?」
違う、そうじゃないんだ。
「じゃあね。機会があったら、また」
ひらひらと笑って手を振り、彼は倉庫を出ていった。
オレンジジュースのべたべたした匂いがそこら中にする。見ればエプロンにもオレンジが飛んでいた。
「……くそっ」
紙パックを地面に落として蹴る。じゃあね、機会があったらまた。
こんな扱いを受けたとしても、自分は彼を嫌いになどなれないのだった。



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