呑気な声に振り返れば、そこには最近仲良くなった猫背の刑事がいた。いつも笑顔のイメージがある刑事は安っぽいビニール傘を差し、やはり今日もへらっと目を細めて笑っていた。
「どーも。雨の日もお仕事ですか、大変ですね」
「そりゃまあ、天気で左右される仕事じゃないし。そもそも歌じゃないんだから、雨が降ったからってお休みーとかそんなわけにもいかないでしょ?」
ってわかる?と刑事がたずねる。たずねられて、確かそんな歌があったかな、と脳裏に過ぎらせた。南の島のわがままな王様の歌。
「まあ確かにそうですよね。刑事さんが雨でお休みとかそんなんじゃ、僕たち一般市民はどうしたらいいのかわかんないですよ」
「あはは、だよねー。仮にもお給料もらってるのにそれはないよねー」
明るい声を立てるのに合わせて笑った。辺りを見回してちょいちょい、と指先で招く。
不思議そうな顔をするのに、
「ちょっと雨宿りしていきません? ちょうど客入りも途絶えましたし。屋根もありますから、ほら」
「え。いいのかな、それ」
「僕に声かけた時点で少し気を抜こうっていうか、気が抜けてたんでしょ? 心底お仕事熱心だったらさっさとこんなところ通り過ぎていっちゃいますって」
「言うなー。……うん、まあ、そうなんだけどね」
頭を掻いて、聞き込みの成果が全然なくってさ、とあっさり白状してしまう。仮にも刑事がこんなに簡単に口を滑らせてしまっていいんだろうか。情報漏洩、機密なんとか。よくわからないけどそういうものは大切なんじゃないだろうか。
透明でうっすら曇ったビニール傘は数日前から飽きずに降る雨を跳ね返している。跳ね返ってはまた落ち、伝うそれを見て、いったんは消した笑みを浮かべ直す。
「いいじゃないですか。必要ですよ、息抜きも。僕もちょうど息抜きしたいなって思ってたんです」
上手く気づかれないように餌を撒けば、つん、と手ごたえがあった。
目を丸くした刑事はすぐへらっと笑み崩れて、
「それって単に共犯者がほしいだけじゃないの? ずるいなあ」
誘いに、答えた。

中に入ってきてビニール傘を畳んでいる姿を隣で見る。癖のある髪は湿気で少し普段よりしっとりとしていた。
傘は小さいのか黒いスーツの肩の辺りが色濃さを増して重そうだ。たぶん、刑事はハンカチなんて持っていないだろうし生憎とここにはガソリン臭いタオルくらいしかない。
提供出来るのは屋根と、暇つぶしの話題くらいだ。
「雨、止みませんね」
雫を払いもせずくるっと巻いて止めただけの傘を左手にしたところで声をかける。刑事はうん?と間延びした反応をしてからああ、と、曇った空を見上げ、
「そうだねえ。このところずっと続いてるよね」
「刑事さんは雨、どうですか」
「どうですかって?」
「好きか、嫌いかってことです」
質問の意味を噛み砕くように目が数度まばたく。
「嫌いじゃないよ」
やがてへらり、と刑事は笑った。
「でも、どっちかって言ったら僕は雨より霧の方が好きかな。これくらい降ったらそろそろ出てくる頃だよね、霧」
「ですね、そろそろかな。……霧、好きなんですか?」
「うん。なんか、あの感じが、さ」
すきなんだ。とつぶやく。
黒い瞳がどこか憧れるかのような、待ち侘びたような色を帯びる。それは好ましい色だった。明るい笑顔の中にありながら薄暗い。
そんな、瞳の色がいいな、と。
「……何だか、安心するっていうかさ」
声がとろり、と柔らかくなる。
その響きは眠気を覚えた子供の声に似ている。腕に抱けば普段より熱い体温を感じる、子供の。
「すきなんだ」
猫背だけれど刑事は背が高い。
少し上にある、世間話をするには場違いな表情を浮かべた横顔を見つめていた。ささやかな雨音。大気を、アスファルトを、濡らす。
雨。
はっと唐突に刑事は我に返る。
慌てて夢想から戻ってきて、早口で、
「って、なんか変なこと言っちゃった僕? ごーめん、今のなし、忘れて!」
まるでいけないことをしているところでも見られたかのようだ。しきりに目をまばたかせて忘れてと繰り返す刑事を見て、笑う。
「えっ……そこで笑うの!?」
「すいません、でも、なんかあんまり必死なもんだから、つい」
「ええー……」
そりゃないよ、と肩を落とすのにくすくす笑い返して首をかしげる。
「いいじゃないですか、別に変なことでも何でもないですよ。僕も好きですし、霧」
「……え?」
「落ち着きますよね。苦手だっていう人もいますけど、僕は好きですよ。雨の方が好きだけど」
「なんで?」
聞いてきた刑事に視線を合わせたままで、ささやいた。
「刑事さんと会えるから」
「へ、」
「なーんちゃって」
一瞬間の抜けた顔をしてから刑事は、ちょっとお、だなんて情けない声を上げる。
「か、からかわないでよ!」
「すみません、でも刑事さんってかわいいですよね?」
「もー、ほんっと、いい加減にしないと怒るよ僕も!」
「あははは、すみませんすみません」
さすがに語調を荒げたのに謝って、だけど、と。
「だけど、ほんとに雨の日は好きなんですよ。日々の雑音が薄れるっていうのかな。……そんな」
言ってみる。
これが、演技なのか本心なのかどうか。
口にしてみても、いまいち曖昧だった。
―――――思ったより難しい。人の、ふりというのは。
「雑音……か」
刑事はつぶやくと、今気づいたというかのように言ってくる。
「そういえば君に会う日はいつも雨が降ってる気がするけど、気のせいかな」
「さあ? どうでしょうね、あんまりよく覚えてないや」
「そっか」
「もし雨の日にしか刑事さんと会えないっていうなら、僕はずっと雨が降っててほしいですけどね」
「だ、だからさ!」
「あはははは!」
弾けて笑うと眉を下げ、刑事が途方に暮れた顔をする。
「今の若い子って皆、君みたいなのかな……ジェネレーションギャップ感じちゃうよ」
「刑事さんだってまだ若いでしょ」
「二十代半ば過ぎたら、もう後は下り坂だって」
「そんなこと言わないで頑張ってくださいって!」
ぱしん、と軽く腰の辺りを叩くとびっくりしたのか、固まる。背中の方がよかったかと思ったけれど、身長差と位置的にその辺になってしまった。とりあえずてのひらで擦って補っておいた。
なにしてんのかなもう、ともはや力なく言った刑事はふと手首に視線を落とし、うわ、だなんて素っ頓狂な声を上げる。
「まっず……合流時間! 戻んないとまた堂島さんにどやされる……!」
「上司さんですか?」
「です! ああもう、僕行くね! じゃあ!」
明らかに混乱しながら刑事が傘を開く。途端に襞に溜められていたらしい雨粒が弾け飛んで、派手に炸裂した。
「うっわ、」
驚いて片目をつぶり水滴をまともに受けた刑事はスーツの袖口で顔を拭く。そうして、
「あー……どうしよ、濡れちゃったね? 僕ハンカチとか持ってないし……どうしようっかな……」
ああ。
やっぱり。
「え、え? なんで笑ってるの?」
「……なんでもないです。こんなの、すぐに乾きますから大丈夫ですって」
「でもさ……」
「上司さん待ってるんでしょ? 早く行かないとどやされちゃいますよ?」
「って、そうだった……!」
目に見えてあたふたとして、刑事は開いた傘をかざしてごめん、と手を上げる。
「ごめん! わざとじゃないからね!」
「わーかってますって。ほら、早く行かないと」
送りだせば刑事は雨の中に走っていく。長い手足を持て余すような特徴的な走り方、後ろ姿を見送っていると急に振り返り足早に戻ってきて、
「どうしたんですか」
「お詫びの代わりに、これ」
反射的に受け取る形に手を出すと、ころころとセロファンに包まれた飴玉がひとつ、ふたつみっつ。
「ジュネスの特売で買ったんだけどさ。結構美味しいよ」
「刑事さん?」
「ん?」
「また買い込んじゃって、僕に押しつけて処理しようとしてたりしてません?」
「ち、違うよ!!」
前にもキャベツを買い込んで困ったという話を聞いた。
「そんなんじゃないって、僕はただ純粋にお詫びとお礼の意味を込めて、」
「…………くくっ」
「ちょ、も、信じてないでしょ! ……まったく……」
拗ねる声に笑って、忘れっぽい刑事に思いださせてやる。
「ほらほら、どんどん時間は過ぎていっちゃいますよー」
「……っ、やっば、」
「僕はずっと刑事さんと話しててもいいんですけどね、楽しいから」
「そういうわけにもいかないよ、仕事だし!」
君も、ほら。
戻りなよと言って刑事は二度目、雨の中へ飛びだす。ばしゃん、と水溜まりを踏む靴。
「じゃあね! また!」
大きく手を振って駆けていく。もう今度は振り返らない。みるみるうちに遠ざかっていく背中。
手を振りつつ小さくつぶやく。
「……覚えて」
自分でそうしたんだけれど。
「ないもん、だなあ」
ずっと浮かべていたのとは違う、微笑みを浮かべた。あの日のきっかけを封じる、あの刑事の頭の中に立ち込めた霧はきっと晴れない。
自分がしなければずっとそのままだから、すなわち晴れることは永遠にないだろう。もしまた握手することがあってもそれは刑事にとって初めての握手だ。
この世の全てに不機嫌そう、不服そうだったあの日の刑事の顔。
……“得た”今となっては少なくとも人前でそんな顔を彼がすることはおそらく、ない。
てのひらに目を向ける。飴玉がひとつふたつみっつ。
ひとつを指先でつまみ、残りをポケットに入れる。セロファンを剥いて中味を口に放り込んで。
広がった単純な甘さに、思わずおかしくなってしまった。



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