「お、静じゃん」
おかえりー、と既に私服に着替えた順平が、薄く開いた自室のドアから顔を出してきた。
「なに、また部活かよ?」
「ん。そんなところかな」
「そりゃ毎日毎日ご苦労さん、てなもんだ」
早く着替えて風呂にでも入っちまえよという声に軽くうなずく。鞄を下げてそのまま部屋へ行こうとすると背後からお気軽な足音。
「そーいや、綾時のやつ遊びに来てるぜ。おまえもあとで部屋来れば? んじゃーなー」

さて。
言葉通りに部屋にお邪魔してみれば、確かにそこには望月綾時の姿があった。暖房がまだつけられたばかりなのか空気は冷たい。普段と変わらぬ格好では少し寒そうだ。テーブルにうつぶせてマフラーを引きよせて巣籠もりのようにうたたねをしている。
大方、順平はコーヒーでも煎れにいったのか。おそらくはそうだろう。
「望月」
風邪をひくぞ。呼びかけてみたが返事はない。修学旅行のときに知ったことだが望月は眠ったらなかなか起きない。そのせいで順平の悪ふざけの被害にあいそうになったところをクラスメイト全員で止めたのだ。しつこいぞおまえ、だの、ええい俺はやる、やるったら俺はやるんだー!なんて大騒ぎの中うっすら目を開けて、ねぼけまなこで辺りを見回してなにを言ったかといえば。
『なにしてるの?よくわからないけど、みんな楽しそうだね!』
その後、問答無用で望月が枕投げの的になったことは言うまでもない。まあ本人は悲鳴を上げつつも楽しそうにしていたが。
「……望月。も、ち、づ、き」
少しボリュームを上げる。起きない。肩を揺すってみても無反応。
「……綾時」
特別な呼び方さえスルー対象。それにはさすがの宮前といい、落ちこんだかもしれない。

ねえ、いまなんて呼んだ?
僕のこと、名前で呼んでくれたよね?ねえ?そうだよね?うん、そうだよね! うん、うん、うん………うん。嬉しいな。すごく嬉しいよ。ありがとう、静くん。

目をきょとんと丸くして、それから頬を赤くして子供のように笑ってはしゃいだ。まわりの目なんて気にせずに手をつないでぐるぐると校庭の真ん中で回って。女子たちが窓から見ていても、一緒に下校する恋人たちが怪訝そうに「なに?」なんて言っていても無視。
通常の三倍もハイテンションな望月に振り回されながら宮前もかすかに笑っていた。
静くん。
たぶん、本人は気づいていない。けれど宮前は気づいた。だから、それでいい。
静くん。静くん、静くん。

かつてひどく楽しそうに特別だよね、特別だよねと連呼していた唇は、いまは寝息を吐き出すばかり。起こしても起きない……。
宮前はふと天井を見た。つまさきで床を叩いてリズムを取る。それからすこしの間をおいて床に膝立ちで座った。
鞄を横に置いて眠る望月に顔を近づけていく。
長めの髪からのぞく無防備な耳。唇をとがらせて、やわらかく息を吹きかけた。
「へ!?」
ガバッ、と効果音をつけたくなるほどの勢いで顔を上げる。だが、まだその顔は夢うつつだ。
……疾風弱点。
……ワンモア。
「え、あれ、宮前くん? いつのまに帰ってきたの? 順平は?」
その頬に、自販機で買っておいたジュースの缶を押し当てる。水滴がついた、まだまだ冷えているやつを、だ。
「ひゃあっ!?」
氷結弱点。
ワンモア。
「わ、ちょっと、ちょっと、ってば! 冷たい、冷たいよ! 宮前くん! 宮前くん! 僕さむがりなんだってば! ねえ!」
「知ってる」
「ならやめてよ、やだよ、本当に冷たいんだってば、ねえ、ひゃ、ほんと、やめてって、やめ―――――」
いきなりの奇襲にまだうまく覚醒できていないのか、望月の動きは鈍い。宮前は適度に攻撃を繰り出すが、それらがすべて面白いほどにヒットしてしまう。ペースを緩めようか。そう思ったか思わないかのタイミングで、急に宮前の視界がぐんと流れどしん、と衝撃が体を襲う。
「……いった〜……」
「…………」
どうやらもつれあって転んでしまったらしい。手から離れた缶ジュースがころころと床を転がっていく。
あーあと思って転がっていく缶から視線を戻せば、下から見上げてくるブルーの瞳。
「宮前くん?」
「ああ……その。何度呼んでも起きないから。風邪。引くと思って……」
「嘘っ!」
破顔一笑。それまでのじっとりとした目つきが嘘のようにぱあっと笑って望月は宮前の髪をぐしゃぐしゃにいじくり始めた。白く、細い指が縦横無尽に駆け回る。
「わ、おい……」
「やめないよ! 先に仕掛けてきたのは静くんだからね!」
「それはそうだけど……あ、こら、それは卑怯だろ、綾時」
「人の寝込みを襲うほうがよっぽど卑怯!」
それは誤解を招く言い草だ、と思いながらも宮前はくすくすと笑い出してしまった。見れば、望月も笑っている。くすくすと。

「なーにやってんだー?」
くすくすくすくす、笑い合って割りこんできた声に振り向けば、カップをふたつ持った順平の姿があった。
「……静くん、説明してよ」
「綾時のほうが上手いんじゃないか」
互いに押しつけあって、顔を見合わせて、また笑い出した二人を見て順平はカップを持ったまま両手を上げた。あきらめたように口端をつりあげて、
「はい、オレっち、お手上げ侍ー」



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