赤い世界よりも赤い。
生きることを放棄した人間の体というのは重いのだと身をもって知った。
じっとりとスーツの、シャツの布地を湿らせてぜえぜえと喉を鳴らしながらそれでも、腕の中の男は笑っている。顔を歪めて金になったまま戻らない瞳の焦点をどこか虚ろにさ迷わせて掠れた声で、笑っている。
「……は、はは、あはは、」
周囲を取り囲む仲間たちは誰も何も言わない。目の前の現実、事実にただそれぞれ口をつぐんで何も言えずにいる。
追いかけてきた正義だった。求めてきた真実だった。掴み取らなければならない勝利だった。
けれどそれは、冷えていく熱い腕の中の体のようにひどく重いものだったのだ。
それを、自分たちは知らなかった。
笑い声が一瞬止まる。く、と喉仏が動いて仰け反り、耐えるように堪えるように弓なりに強張った全身が弛緩した。反動でか緩んだ口元から新たにうっすらと赤を含んだ透明な唾液がこぼれる。
咳き込む男。
「―――――なん、だよ、そろいもそろって辛気臭い、顔、しやがって……」
笑って毒づく。
「勝ったんだ、ろ。なら、笑え。悪い奴を倒して、せか、いを、救ったんだろ。なら、もっと、笑って、指さして笑って、晴れ晴れした顔して、そういうもんじゃないのかよ、……つまんねえ、の……」
確かにそうだ。
連続殺人事件の真犯人。悪を倒し、勝ったのなら喜びの声を上げてこれで平和になると手でも取りあう。
漫画や小説、ドラマでは定番の展開だ。
だけど、違っていた。
自分たちは知らなかったんだ。絶対の勝利でも、相手が誰かを傷つけていても、終わった後でいざ現実と向き合えば言葉を失う可能性が有り得るということを。
だから誰も何も言えない。これが正解だと思っていても、どこか違うと感じている。ボタンをひとつ掛け違えて、知っていても知らないふりをして、そのまま。
男がまた咳き込んだ。今度は長い。額にうっすらと汗をかいて、青ざめた顔に苦悶の表情を浮かべている。
「ッ…………」
閉じていた目が開く。弱々しいまなざしは数瞬呆け、なのにすぐ笑いを取り戻して繕われる。
ちりちりと消える間際、焦げる間際のように金色の奥でさらに暗い金色が揺れた。
「笑え、よ」
か細い声だったが、男以外誰も口をきかない中では異様に大きく響いた。
「あんなに俺を否定、して、だったらみっともないって、笑って切り捨てられ、る、……。……おかしいだろ……、じゃないとおかしいだろ、なあ、なんでそんな辛気臭い顔してんだよ、そんなんじゃこっちは、」
息を吸った胸元が大きく動いた。
「そんなんじゃ、こっちはどうやっていったらいいのか、わかんねえだろ……?」
頼りなく笑った男の目はもう何も映していなかった。
行き方がわからないから笑って送りだされないとと訴えられても自分たちは子供で、目の前の現実に対処出来ない。
そうだ。
自分たちは、子供だったのだ。
正解の裏に納得の行かない部分が少しでもあるとは知らなかった子供ばかりだった。
荒い息がなだらかになっていく。いくが、平穏に向かうのではなくて、むしろ逆方向に向かっていく。尾を引いて落ちていく。
そうして、消える。
どうしたって消える。それくらいは、わかる。
遠くを眺めていた瞳がわずかに揺れて、開いていた口元がかすかに笑った。
「……ああ、でも、あんなにぐちゃぐちゃにされちまって、だけど、」
つぶやきを聞いて思い出した。
支配されて、そこら中を突き上げられて、まるで踊っていたようだった体。
「だけど、からっぽの中ぜんぶ埋められたみたいで、あれはあれで、気持ちよかった、かな―――――」
はは、と。
唐突に声は途切れて、それで、


顔を上げる。
頭痛がする。軽い振動。薄暗いのはトンネルの中にいるからだと辺りを見回して把握した。
車内は空いていて自分以外誰もいない。だから、さっきまで見ていた光景を、夢を。
割と鮮明に思い返すことが出来た。
落ちた手。手首、てのひら。
中途半端に残った体温と増した重さがまだ夢から抜け出ても残っている。
いや。
……いや、あれは夢じゃない。
自分は一度、この電車に乗っている。
この電車に乗って、これから行く先と同じ場所に向かい、さっきとは違う光景を見た。一度起こった現実を。
それでまた、この先もきっと同じ一年を繰り返す。
違うのは記憶を積み重ねて引き継いでいるということ、知っている、ということだ。
連続殺人事件が起こることも、誰が狙われるかも、誰が真犯人なのかも。
知っている。
息を吐いて目を閉じる。開けばまだトンネルの中だった。
頭の中の霧を晴らす。
次は間違わないように。
最終的に大事な何かを間違えてしまわないように。失ってしまってはいけなかったものを、終わってから気づくなんてことがないように。
防げなくてもせめて、何か。何かきっと出来ることがある。
これから会う仲間たちにも腕の中に抱いた、相手にも。
今の知っている自分なら何かが出来る。
ちゃんと終わらせることが、出来るはずだ。
トンネルを抜ける。窓の外には見たことのある景色。
ここで自分は同じ一年を過ごす。
からっぽを埋められてよかった、なんて、そんな言葉を最後にしないようにともう一度息を吐き、窓に映る自分の顔を睨みつけた。



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