木の下に座りこんでいた刑事は汗の滲んだ顔を上げ、自分を呼んだ少年を見た。
ほんの少し不思議そうに間を開けてからへらっと笑って、あー、堂島さんとこの、と普段のように反応する。刑事は下の名で少年を呼ぶことももちろんあるが、大体第一声は堂島さんとこの、だ。
どうやら上司のイメージの方が強いらしく上司のところの誰々さん、という認識がまず一番に刷りこまれてしまったらしい。
かろうじて愛娘は菜々子ちゃん、と名前で呼んではいるが。
比べて付き合いも長くなければ、娘よりも血の濃さで下となる甥という立場の少年は刑事の中でまだあやふやな位置付けのようだ。空にもくもくと広がる入道雲のように。
「なに? どしたの、何か用かな?」
「いえ。その、座りこんでたので、日射病でも起こしたのかと思って」
「日射病?」
刑事は語尾を跳ねさせ。
あはは、と声を立てて手を左右に振った。
「ちがうちがう、そんなんじゃないって。確かに今日はあっついけどね、僕もそこまでヤワじゃありません」
「……すいません」
「見たとおりね、ほら。あんまりがたいのいい方じゃないでしょ僕。だからそういう風に思われるのはわかるけど」
だけど心配してくれたんだよね、と刑事は言い首をかしげる。散髪に行く余裕がないのか、前髪とは裏腹にうなじまで伸びた長めの髪が肌に貼りついている。
「優しいよねえ君。なんていうか面倒見よさそうっていうか。学校とかで後輩とかにも慕われるタイプっぽいな」
「そんなことないですよ」
「そう? 謙遜かなあそれって」
またあはは、と刑事は声を立てた。おそらくは一回り程度年下の少年に向かい、随分と親しげに接する。
距離をあまり感じさせないふるまいにしかし、どことないよそよそしさがある。
少年はそれをどう感じているのか。淡白な佇まいからは上手く感じ取れない。
「それで」
「ん?」
「どうしたんですか。こんなところに座りこんで、その」
「ああ。うん、これ」
刑事が指差した先には、蝉が転がっていた。腹を見せてぴくりともしない。既に息絶えた死骸であると、誰の目から見ても明らかだった。
「……蝉」
「うん。蝉」
「好きなんですか」
「そういうんじゃなくて、ちょっと歩いてたら見つけちゃってさ。それで、ちょっと見てた。ってところ」
「どうして見てたんですか?」
「なんでだろうねえ」
僕にもわかんないや、と笑顔のままで刑事は言った。あれかな、ちょっと休憩のついでかな、と続け、さらに休憩するならこんな外よりクーラーの効いたところの方がいいけど、と続ける。
「たとえば、ジュネスとか」
「そうそう。……そういえば、あそこ以外で君と会うのって結構珍しいよね。大体いつもあそこで会うよね、僕たちさ」
あと堂島さんち、とやはり上司の名を真っ先に上げる。
「今度またお土産でも持ってお邪魔するね。こないだご馳走してもらったご飯、美味しかったです」
「お粗末さまです。よければいつでもどうぞ。菜々子も叔父さんもきっと喜びます」
会話が途切れた。刑事は不意に表情をなくし少年を見つめてから、蝉の死骸へと視線を移す。
「蝉ってさあ。可哀相だよね、結構。一週間しか生きられないんだよね」
「そうですね」
「しかも生きてる間中さ、死ぬほど暑いし。僕だったらずっと土の下にいた方がいいんじゃないかって思うかも。ほら、土ってひんやりしてるでしょ。天然のクーラー……じゃないか。でもまあ、そんな感じ?」
「でも、やっぱり生まれたんだったら外に出たいんじゃないですかね。一週間しか生きられなくても、その間ずっと生きていられるのは、幸せなことなんじゃないかなって、俺は思います」
「元気だねえ。僕はダメかも。ムリ!キライ!シンドスギ! ……なーんて、じゃないけどさすがにこの年じゃもう色々と辛いよ」
「そんな。まだ全然若いでしょう、足立さん」
「んー……、若いつもりでいてもね、君みたいな若い子見てるとどうしてもあーあって思っちゃう? 高校生とかさ、さすがにまぶしい。制服なんて着てたの何年前だったかな、とかついつい浸っちゃうっていうかさ」
若いっていいよねー、などと言いつつ刑事は蝉の死骸を見ている。
「僕さ、虫とか苦手なんだけど、足とかお腹のとことかさ。でも羽根とかは綺麗だと思うな」
言われて少年が見てみれば、確かに蝉の羽根は透き通った虹色をしている。折り紙の中に一枚や二枚だけ入っている特別なホログラム紙のようだ。幼い子供がこっそりと胸をときめかせ、大事に宝箱にしまうような。
プレゼントしてみたいと少年が思ったところで、
「だけどやっぱり虫の一部分だから無理なんだけどね」
刑事があっさりそう、言った。
沈黙した少年の前で刑事は立ち上がり、んー、と伸びをしておっと、とよろける。
「ずっと座ってたから少しくらっとしちゃった。危ないよね、夏はさ」
目の前白くなって黒くなった、と笑う刑事を見て、少年は鞄を探りだす。目を丸くした刑事の頬に取りだしたものを押しつけた。
「ひゃ」
裏返った声を上げて身を竦めた刑事は、手の中に入れられた青い缶を見て、少年を見る。
「え、なに、なに」
「リボンシトロン。ついさっき商店街で買ってきたんです。まだ冷たいですから、どうぞ。夏は水分摂らないといけませんよ」
「でも悪いよ。君のでしょ」
「四本買いましたから。大丈夫です」
どうして四本も買ったのか聞きたそうな顔を刑事はしていたが、目を細めると両手で缶を包みこむ。
「じゃ、もらっちゃおうかな。ありがとう」
そして。

あそこの東屋で一緒に飲もうか、と、ようやっとのらりくらりかわされ通しだった少年を満足させるような誘いの言葉を、口にした。



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