―――――おまえらのせいで。
足立はだん、と誰かがその音を聞きつけて走ってくるのも考えず壁を靴底で蹴りつけた。ざ。ざざざざざ、ざあっ。少し雨音に似た音がして、白いクリームを塗りたくったような壁に汚れ、靴跡がついた。高々と足を振り上げ振り下ろす。もう一度、蹴りつける。
すると鈍い振動が足の裏に伝わってきた。息が荒ぐ興奮、激昂して三度目。今度は回し蹴りをしようと思ってぐったりと体を抜く。
「……あのガキ共」
もう“稲羽市の足立透”である必要はない。足立は息を荒げたまま脱力して床に座り込んだ。本当は床にも何発も蹴りを浴びせたかったのだけどそれどころではなかったし、何より面倒だった。
スーツの下のシャツが湿ってじんわりとぬるい。そう。それどころではなかった。
さっき暴れ回ったせいで子供たちは足を速めただろう。夜の病院は音がよく響く。騒ぐ音も同じく。遠くからでもキンキンとした声が聞こえてくる。
あの、テレビの中に突き落とした女のように。
両耳を塞ぎ硬く目を閉じる。ああうるさい。うるさいうるさいだまれ。あの夜吐き散らした罵声は忘れることができない。女の柔らかい肉に触れて揉み合いながらテレビの中へと突き落とした。あの、香水の匂いも肉の感触も。
忘れることが出来ないでいる。
不意に床に視線を落とすと、署から支給された携帯電話が転がっていた。黒のやや野暮ったい携帯電話。ぎり、と足立は唇を噛んだ。

―――――足立さん、こんにちは
やあこんにちは、堂島さんとこの
雨宮です。雨宮、基
(おまえの名前なんてどうだっていい)
今日は随分と帰りが早いねえ。サボり?
……テストです。中間テスト
ああ、そうなんだ、ごーめんごめん
(僕じゃあるまいしねえ、とここで笑う)
僕じゃあるまいしねえ、あはは、そんなこと…………?
(なんだ、このガキ)
足立さん、
そうして交換したのが携帯の番号とメールアドレスだった。ただの高校生の情報なんて本当はいらない。けれど、面白そうだと思った。
澄ました顔を傷つける材料になるかと思って。
だけど今、仮面を取り払われて傷ついているのは自分だ。
思えばおかしな子供だった。探偵ごっこなんて笑うしかないけれど、その中でもあいつはどこか真摯で、勇敢で。そういった人物がきっと、昔から自分は嫌いだった。
おとなしくいい子のふりをしていた自分に取っては最悪の相手。
本当は携帯の番号もメールアドレスも交換したくなかった。個人情報なんて渡したくない。けれど、でも、それより―――――。
面白そうだ、という思いが勝ったのだ。


足音が近づいてくる。素早く足立は立ち上がり逃走ルートを探した。が、見つからない。袋のネズミ……そんな言葉が頭を過ぎる。ドアから出れば前から子供たちがやってくる。窓から飛び降りるのは危険だ。……今さら危険もどうだっていいけど。ただ、あの子供たちに得意顔で捕まるのが嫌なだけで。
畜生、畜生、畜生。
交換なんてしなければよかった。のらりくらりと“稲羽市の足立透”でごめんねとかわせば。大体が、だ。
興味も何もない人間が自分の内側に入ってくるというのはひどく気持ちが悪い。自分を知ろうとされるのは、すごく。
それから除外されるのは上司とかろうじてその愛娘で、他の人間には中に入ってほしくない。下手を打った、足立は舌打ちをする。ああ、面白いこともあった。可愛い従妹が危篤状態から―――――……だけど同時に気分が悪くなった。
あの女の肉を思いだして。
まだ携帯は床に転がっている。足立は立ち上がると携帯に向かって足を振り上げ、一気に、


ぐしゃ


「足立はどこだ!」
ねえ、僕は知ってたんだよ。
「見つからないよ…………ねえ、もしかして」
君が携帯を受け取ったとき、口端を吊り上げて嬉しそうに笑ったこと。
「逃げたの……!? テレビの、中に!?」
自分にさえ気づかれないようにだけど、年相応にすごくすごく嬉しそうに笑ったこと。
「この……! すぐに追いかけ、」
「だめだよ花村先輩!」
それにしても上に向かって落ちてるのか下に向かって落ちてるのかわからないなあ。
「どこに向かって落ちるのか、わからないんだから!」
甲高い声を聞いて一瞬身が強張って、それでもどうでもいいやと思った。どこに落ちたってかまわない。全部一緒だ。ここじゃなければ。 あの人がやってくる場所じゃなければ、どこでもいい。
そのとき、テレビの外側からぬるり、と腕が伸びてきた。突っ込まれた顔、必死な目。腹から声を出して、
「足立さん!」
伸ばしてくる腕。手。懸命に名前を呼んでくる。
「足立さん!!」
それを半眼で見やった後、


「気安く呼ぶな、バーカ」


無重力状態の自由にならない足で、あっけなく叩き落した。
灰銀色の目が大きく見開かれて、あだちさん、とでも言おうとしたのだろう。けれどその前にこっちは霧に落ちてハイ、ゲームオーバー。 吐き気がするほどきれいなガキの手なんて誰が取るか。
真っ赤な世界に堕ちていきながら、躁的な声を立てて両腕を広げて笑い続けた。





黒く、軽いそれを手に取る。メールがそろそろ届く時間だ。
“気安く呼ぶな、バーカ”
今遅くてもあの言葉を撤回したい。成長して深くなった声で呼んでほしい、名前を。
通話には使わない携帯電話だけれど、足立はそれを無駄に思ったことはない。
―――――彼もそう思ってくれると嬉しい。
数年前の戦いで残った傷を愛しげに撫でて、足立はクラシック調の音楽が流れてくるのを静かに待った。



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