強い風が吹いて、アリスの長い髪と、エースがまとっているぼろぼろの布が翻った。
 時計塔へと続く道は遠くまで伸びている。エースはこれが本当に自分を時計塔まで連れて行ってくれる道なのかわからない。ただ、アリスがこうやって隣を歩いているのだから間違いはないのだろう。もしも時計塔につかなかったのだとしたら、それはアリスが間違っているのではなく道のほうが間違っているに決まっている。
「――エースには怖いことはないの?」
 エースの隣を歩くアリスがつぶやいた。風が髪をさらうせいで、エースからは彼女の表情がうまく見えず、声だけがその風に乗って耳に届く。
「怖いことくらい、あるよ。俺だって」
 信じられないわ、とアリスは小さく呟いた。
「私、あなたには怖いことなんてないんだと思ってた」
「酷いなあ、アリスは」
 ははは、と軽く笑ってみせるエース。彼が仮面をはずしていたならばきっとアリスにはわかっただろう。彼は決して笑ってなどいなかったことを。
 エースにはすべてが怖かった。世界に抗うと決めたのはエースで、与えられた騎士という役目を捨ててしまおうとしたのもエース自身だ。しかし、世界はそれを捨てることを許してくれずにいる。それでも捨てようとするエースに報いは与えられるだろう。それも覚悟してのことだったはずなのに、大切なものが出来てしまってからはそれがひどく怖いことに思えてならなかった。
「君に怖いことがあるように、俺にだってあるんだよ」
 そう、とアリスはため息のような言葉を漏らした。
「………そうね、“あなた”には、あるのかもしれないわね」
アリスが不意にこちらを見上げる。刹那、エースの呼吸が、とまった。
「アリス、」震える唇でエースが彼女の名前を呼んだ。
 アリスはエースの呼びかけに応えない。ただ黙って、遠くを見るように何かを見つめている。
 エースはわかってしまった。アリスは今、エースを見ていない。彼女の瞳はエースを見ているけれど、今のエースを見ているのではなかった。
 彼女の瞳のその綺麗な色は今、手を伸ばせば届く距離にある。だけれど、手を伸ばして掴もうとしたらきっと遠くにいってしまう。その華奢な身体を抱きしめることはできても、今のエースでは彼女の心に触れることはできない。――どうして、この手では、アリスの炎に触れることができない?
「――ッ!」
 声にならない吐息が鋭く吐き出され、たまらなくなったエースは左胸のあたりに手をやる。そこで鈍く光る銀色の留め具に手をかけ、ためらうことなく引きちぎる。土に落ちて、からん、という乾いた音がしたかとおもうと、留め具で固定されてエースの身体を包んでいた重たい布が、強く吹いた風にあおられて飛ばされる。アリスの視界にエースの真っ赤なコートが飛び込んでくる。
 地面の上に落とされた銀色を踏みつぶして、今度は仮面に手をかける。指が少しだけ震えているのがわかった。それだけのことをしているのはわかっている。それでもエースは、その仮面を乱暴に取り払った。急にたくさんの太陽の光が瞳に入り込んでくる。
「――っ、エース………」
 アリスの瞳の色が急に近くなる。目が合っているという感覚があった。アリスが自分を見ている。甘い火がその瞳にちらついている。さきほどまで見つけることが出来なかった炎が自分に向けられている。
「…………どうして」
 今もエースはエースであり、仮面をつけて顔を隠そうともエースはエースだ。ただ、騎士であるかないかの違いがそこに横たわっているというだけ。それがそんなに大きい違いだと言うのか?どうしてアリスは騎士である自分しか愛してくれない?騎士でなければエースはエースでいられないと、アリスまでが言うのだろうか。
「俺だけを、見ないでよ………どうして、全部を愛してくれないの………」


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