夜が来た途端、風が強くなった。風が吹くたびにスカートや髪がはためいて歩きにくいのだけれど、そんなことは大した問題じゃなかった。街灯の頼りない灯りだけじゃあ女の子が出歩くのに不安だとか、そんなことはもっとどうでもいい瑣末なことだった。
 時計塔へと続く道は遠くまで伸びている。アリスが滞在させてもらっているハートの城から時計塔まで歩くとのはそれなりの運動として数えていい気持ちになるくらいは離れていて、時計塔に辿りつく頃にはいつもアリスの息は上がっている。本当ならそんな遠い場所へわざわざ歩いて移動するなんて自らすすんで行うようなことではないのだけれど、これだけは例外中の例外だ。
「アリス、」
 不意に名前を呼ばれた、と思った途端、背後から伸びてきた手に肩を掴まれる。その武骨な掌も、脳天気なほど底抜けに明るい声も、まさにアリスが逢いたいと思っていたその人によく似ていて、だからアリスは弾かれたように振り向いた。
「アリス! 偶然だなあ」
 けれど、そこにいたのは、アリスが願ったその人ではなかった。否、ある意味ではその人と言ってもいいのかもしれない。確かに同じ輪郭をしていて、同じ肌の温度をしている。帽子屋屋敷の門番をしているそっくりな双子たちと比べものにならないほど、アリスが願うその人と、目の前の男とはよく似ていた。でも、似ているだけ。瞳の奥の光を合わせれば、すぐにわかる。この人じゃない。
「……なんだ、エースだったの」
「なんだか残念そうに見えるんだけど? 傷つくなあ」と、その人は笑いつつ、アリスの身体から手を離す。
「だってさっきも逢ったじゃない。お城の廊下でたき火なんてして」
「遭難したときには身体を温めるのが重要なんだぜ?」
「そうでしょうね、遭難したときにはそれはそれは重要でしょうね」
 ため息をついて、アリスは前を向きなおし、再び歩き始める。これに構っているとただ疲れるだけだ、とさっさと見切りをつけたのだ。
 やっぱりあの人とは違う、と思った。あの人はこんな風に簡単にアリスに触れては来ない。声もよく似ているけれど、肺の深いところから呼吸をしているように穏やかで、けれどいつも何処か哀しみを湛えているように静かに響くのだ。
「ちょ、っ、待てよアリスー!」
「待たない」
「さっきから酷くないか?」
 小走りで彼が駆け寄ってきて、勝手にアリスの横に並んで歩き出す。チッ、とアリスは内心舌打ち。一体何処まで一緒に歩く気なのだろう。時計塔まではまだまだ距離がある。あの人と同じ顔で、似たような声で、馬鹿づらさらして脳天気に歩かれると、苛立って仕方がないのに。迷子になってまたどこかに消えてしまわないだろうか。アリスはほとんど本気でそんなことを願った。そして時計塔でアリスは時計塔の主と共に、あの人が来るのを待つのだ。騎士、という役に縛られる自分を心底憎む、夜の闇みたいな瞳をした、愛おしいあの人を。
「……だって、私が話をしたいのは、貴方じゃないもの」



真夜中は別の顔
(2012.02.11.)