もう戻る道なんてない。自分からこの道を選んだ。
拒否しようと思えば、本気で抵抗すれば、撥ね退けられた。本当に帰りたいと願えば、もっとはやく、ブラッドとこんなにも深くつながってしまう前に帰ることが出来たはずなのだ。きっと心のどこかでこの結末を望んでいた。この人にひきとめてもらって、ずっとこの人の傍に居れる結末を。
だけど、ふと思いだす。ぼんやりとした、かすかな後悔。もう、何を置いてきてしまったのか、何から私は目を背けてしまったのか、わからなくなってしまっているのに、たしかに私はあの世界に何かを置いて、何かから逃げてきてしまったのだという罪悪感は拭えずにいる。
しかし、それは、この世界に残ってしまった直後は、ずっと私の身体につきまとって、私を呪い続けたのに、いくつもの甘い夜とだるい昼と真っ赤な夕方を越える間にゆっくりと薄れていって、今ではもう、時々ふと私の身体を縛る程度になってしまった。私は確かにそれを忘れていっていた。
それが、私にはたまらなく恐ろしい。このまま、こんなに幸せな時間ばっかりを過ごしていったら、きっといつか、こんな曖昧な思い出なんか、完全に忘れてしまう気がするのだ。それが怖い。絶対に、忘れていいはずなんかないのに。それを忘れてしまえば、私はきっと心から幸せになってしまう。そんなことは許されない。こんな、温かい陽だまりのなかにずっといるような幸福を、なんの暗闇も知らずに受け取っていいはずがない。


「………ねえ、ブラッド。このまま、時間をとめてしまったら、怒る?」


となりで眠る人に、私はそう訊いた。彼の寝顔は幼い。本当はこのひと、幾つぐらいなんだろう、と思った。私よりもずっとずっと先を見ているようでいて、変なところ、子供っぽいのだ。今はもう、そういうこの人の全部が好きだなんて思えるくらいに、脳がただれてしまっているのだけれど。
ブラッドからの返事はない。やっぱり寝てるのかな、と小さくつぶやいた。
私をあんなにも溶かした指先は、そうやって眠りに落ちている間も私を抱きしめ続けている。てのひらからつたわる温度は、優しく温かい。
この温度に甘えてしまいたい。何もあげられるものがない私は、私自身を全部差し出してしまってもいい。それくらい、この温度を私は愛している。本当に、愛しい。でも、私はこの愛しさだけ、感じていていいわけじゃないんだよ。
ああ、全部、とまってしまえばいい。こんな優しく柔らかい時間を、永遠に味わいつづけることなんて出来ないと、私のなかの棘はちくちくと私を責める。だから、どうか、この瞬間に、全てとまって。そうして永遠にしてほしい。私も、あなたも。 でも、きっととまった世界なんて、あなたは退屈だと思うのでしょうけれど。

このまま時間をとめてしまったら、怒る?

(未来なんていらないんです)




(2007/06/03)
(ある方への捧げモノとして某SNS投下作品を一部修正)