彼女の居た世界では土葬というものが一般的だとある書物に書いてあった。たしか、赤い革張りの本で、少し重たかったと思い返す。それなのに本棚の高い位置にいれていたせいで、本棚からその本を取り出したアリスは少々手を傷めてしまった。配慮が足りないわとぼやいたアリスに、今度から高い位置にある本をとるときは私に言いなさい、と応えたことをよく覚えている。その刹那にアリスが浮かべた面映い微笑みの、唇の色でさえも鮮やかに。
 土を掘り返す手が、とまる。両足だけならきっと埋まるくらいの穴が目の前に出来上がっていた。ふと気がつけば空は夜の帳が下りていて、漆黒のキャンバスに点々と黄色の絵の具を落としたような星がブラッドを見下ろしていた。
 ふと気づいて、ブラッドはジャケットを脱いだ。冷たい風が布一枚向こうで吹き荒れているのを感じた腕が今まであった温もりを恋しがるが、それを無視して、ブラッドはジャケットを手に持ったまま、振り返る。
 月の光をやんわりと受け止めるアリスの身体は、先ほどと変わらない姿で、草と、枝から離れた薔薇に囲まれて、そこにあった。陶磁器のように滑らかで白い頬は、星々のかすかな光を反射しているのか、まるで内側に柔らかくつめたい星が存在しているのかのように静かに光っていた。
 いつも身に着けている青いエプロンドレスの袖から伸びる細いむきだしの腕は、夜の重たい冷気を孕むにはやはり弱すぎて見えた。ブラッドはアリスのほうへ静かに寄って、傍らに跪く。無防備なその唇を軽く啄ばんだ後に、抱えていたジャケットをそっと彼女の身体にかぶせる。アリスの表情が和らいだように見えたのは、錯覚ではないといいなとぼんやり思った。
 その薔薇園は確かに屋敷から離れていて普段から静かではあったが、屋敷に誰もいなくなった今と比べれば、かすかな喧騒に包まれていたのだと気づいた。あの甘いノイズのような騒々しさは、むしろ薔薇の静的な美しさを引き立てていた。他に何の音もない完璧な静寂のなかに咲く薔薇たちは――なにしろアリスの鼓動の音すら存在していないのだから――、その静けさに戸惑い、その色を顰めているように見えた。そうして、ゆるやかに終わりを迎えるのだろう、この薔薇たちも。始まりをやっとのことで掴んだというのに、その終末はあまりにもあっさりとやってきて、それが終わりなのだとブラッドが知るよりも早く、その存在は最早ブラッドの手の届かないモノとなってしまう。まあ、つまりはそういうことなんだろう、世界なんて。
 最後に何を思って、アリスの身体は闇に飲まれたのだろうか。ブラッドは、そのときにアリスが自分のことを考えていたと思える自信がなかった。
 両手にたくさんの荷物を抱えていたあのとき、もっと多くを負担してやればよかった。あの夕方のお茶会はもしかしたら菓子の量が足りなかったかもしれない。もっと彼女が好きそうな本を、多く買ってやればよかった。そういえば彼女が寝起きしていた部屋の掃除はきちんと行き届いていたのだろうか。――もっと優しく、抱いてやればよかった。
 脳の縁から剥がれて、ぐるぐると体内を巡るアリスの記憶のひとひらひとひらが、ブラッドから酸素を奪う。深い海の底に潜ったように息が出来なくなって、胸を掻き毟る。誰かが嘲笑する、そらみたことか、と。
 アリスの口に残る酸素を奪い、正確な呼吸を取り戻すために、ブラッドはまたアリスの、決して動かない冷たい唇にキスをした。それはいままで、アリスがブラッドから受けたことがないほどに優しいもので、きっとアリスが口を開くことならば、こう言っただろう。何処が面倒なことになっていないっていうのよ、と。


(2007.autumn)
(Thanks for "MIGHTY LAK'A ROSE")