今の生活に慣れたいわけじゃない、でも本当はもっと、あんなにも優しい人の傍に居ることが出来るということに感謝しなければいけないんだろう。理屈ではわかっていても、幼いゆえか、ロマーノはヴェネチアーノと一緒にいることが出来たあの日々を思い返さずには居られなかった。
そうだというのに、どうしてヴェネチアーノに会ったあとは、こんなに落ち込んでしまうのか。


「……ふん」


スペインの屋敷は、柔らかな絨毯のように草花が敷き詰められた土地の真ん中にぽつりと建っていた。屋敷を出て少し南に歩いたところにある、果てしなく続きそうな一面の緑のなかに埋もれているような小高い丘の天辺に、ロマーノは1人、膝を抱えて座っていた。彼の小さな手は薄汚れた青いクレヨンを握っていて、その鮮やかな色を真っ白なスケッチブックに移している。キャンバスの上のほうにある赤は真ん中にいくにつれ濃くなっていき、ある一線において、青に接している。赤ではない部分はほとんどが青く塗られていたが、その青の真ん中あたりに、緑色の丸い塊が描かれていた。
ロマーノは空を見上げた。肌寒さに包まれた風が軽やかに、青い空から落ちてきて、ロマーノの首筋を撫でた。ロマーノは秋の空が嫌いではなかった。手を伸ばしても絶対にその水色の断片にすら触れられないことを明白に見せ付けてくれるから、とても優しいと思う。白い雲はその水色のなかを泳いで高く昇って、しばらくしたら目に見えないもっともっと高くにまでいってしまいそうな気がした。今はまだ、輪郭が空の青に滲むだけですんでいるけれど。
よく晴れた日に外に出て絵を描くのが、ロマーノはとても好きだった。スペインの屋敷に来る前、つまり故郷に居たときは、ロマーノの周りの大人たちの日常の中には絵を描くという行為が取り込まれていて、必然的にロマーノも絵を描くことの楽しさをよく知っていた。自分の描く絵が上手くないどころか、他人に見せるのもおこがましいレベルだということはわかっていたし、何よりも双子の兄はとても綺麗な絵を描いた。あの綺麗さは、ロマーノがいくら努力したところで手に入れられるものではないとわかっていたから、ロマーノは誰もいない場所で、1人でただ黙々と絵を描くことを好んだ。どうせ、俺の絵なんか、笑われるだけなんだ。ロマーノの頭のなかで、嘲笑が響く。ぴたりとロマーノの指先が動くのをやめてしまった。
あの時も、真昼の秋空の下、これと同じ絵を描いていた。すると、周りに居たある男が――それがはっきりと誰であったかはもう覚えてはいなかったが――、この絵を見て、言ったのだ。――目の前にある空は青だし、地面は緑だ。不思議な色遣いをするんだね、と。その男の言葉を、他の大人たちも繰り返し、ロマーノに向かって唱えた。口調こそ優しかったかもしれないが、その言葉たちは呪詛のようにロマーノにからみつき、縛り上げた。あれから、誰かの前で絵を描くことが出来なくなったなんて、きっとあの大人たちは想像すら出来ないだろう。


「……別に、………別に、そんなのどうだっていいんだからな」


それでもロマーノはこの風景を描かずにはいられなかったのだ。それだけで充分じゃないか。
自分自身にそう言い聞かせるために小さくロマーノは呟いた。その言葉が風のなかに溶け込む前に、ロマーノの握っていたクレヨンは再びその色で絵を描き出し始めた。すると、


「――お前、絵ぇ描くんやな」


背後から唐突に声が響いた。びくり、と驚きで身体が震えたせいでその声に反応することが出来なくなった一瞬に、背後から伸びてきた手がロマーノのスケッチブックを掴んだ。あ、と思ったときにはもうその手がスケッチブックをロマーノから奪い去ってしまった。
ロマーノは振り返る。そこに立っていたのは、いつだって能天気な顔をしている、背の高い青年。ロマーノから奪ったスケッチブックをしげしげと眺めていた。


「す、スペイン!返せよ!」


すぐさま立ち上がるロマーノ。しかしまだ幼いロマーノがスペインの手に届くはずがなかった。じたばたと暴れて、スペインの手からスケッチブックを取り返そうとするが、案の定上手くいくはずもなかった。
スペインはロマーノを見ずにいて、ただそのスケッチブックを見ていた。そんなスペインを見て、ロマーノは泣きたくなる。またあの嘲笑が鮮やかに耳をつんざく。こんなことになるんだからやっぱり描くべきじゃなかったんだ、俺みたいに下手な奴が、誰にも描いた絵をわかってもらえないというのに!
次の刹那には頬に涙が零れそうになっていたロマーノに、スペインが視線を移す。スペインと目が合ったロマーノは、目をそらしたくなる。嗤われる、そう思った。いやだ、嗤われたくない、スペインにそんなこと、だって、だってスペインなのに、 いやだ、いやだ。スペインの前に立って居たくなくて、踵を返して走って逃げてしまいたかった。それなのにロマーノは視線をそらすことすら出来ずただ立ち尽くすことしかできず、


「ロマーノ、お前、綺麗な絵ぇ、描くなぁ」


だから、最初は、そのスペインの言葉は、聞き間違えかと思った。
だってだって、綺麗?そんな、だって誰もわかってくれなかったのに。


「………え…?」


小さく疑問を口にすると、スペインはにっこりと笑ってしゃがみこみ、目線をロマーノと同じ高さに合わせ、スケッチブックを、まるで大切なモノであるかのように丁寧にロマーノの手の中に戻した。自分の手の中に戻ってきたスケッチブックとスペインの顔を交互に見つめるロマーノ。この絵は確かに自分が描いた絵で、あのとき嗤われたのと同じ色合いで、だけれど目の前のスペインの笑顔はとても優しかった。
スペインはその大きくて少し武骨な手を、ぽん、とロマーノの頭に置いて、言う。


「夕焼けの絵やろ?夕方の真っ赤な空と、海。真ん中のはシチリア島か?」


呼吸が出来なくなった。替わりに、溢れそうだった涙が、違う意味合いを持って、頬を伝った。
どうして、どうして?どうして、どうしてわかってくれたんだろう、だって、誰もわかってくれなかったのに。同じ風景を見たはずのヴェネチアーノですらわかってくれなかったのに。
ヴェネチアーノと手をつないで一緒に見た、夕日のなか、海の真ん中にそっと存在したシチリア島。あの頃は心の底からヴェネチアーノのことが大好きで、確証もなく傍にいられると信じていたし、ずっと傍に居たいと本気で思っていた。
スケッチブックを抱きしめて、ぼろぼろとみっともなく泣くロマーノを、スペインは、ぎゅうと抱きしめる。ロマーノは、スペインの、昼の太陽に似た匂いでいっぱいになるから、余計に後から涙が出てくる。


「ごめんな、でも、きっと、すぐにイタちゃんとまた一緒に過ごせるようになるからな」


何も言わなかったのに、スペインは、ロマーノが描いたその絵が、ヴェネチアーノと見た風景だってことまでわかっているかのような口調で、そんなことを言った。
どうしてこの男はこんなに優しいんだろう、どうしてロマーノのことを全部わかってしまうんだろう。ロマーノはスペインのことを何1つ考えてあげられないどころか、迷惑ばかりかけているのに、何も出来ないのに。


「今度、俺の絵も描いてな」


子守唄を歌うように囁いたスペインに、ロマーノは涙の合間を縫って、応える。


「誰が、お前の、絵なんか描くか…!」


いつもと違って骨を通して聞いたせいか、いつもと同じような憎まれ口であるはずなのに、たまらなく愛おしく感じたスペインは、ロマーノが鮮やかに覚えているその風景を、いつかまたロマーノに見せてやりたいなと思って、苦笑した。ああ、やっぱり俺、ロマーノのこと、可愛くてしょうがないんやな。





ゆうやけこやけでしあわせもよう



(2007/11/01)
(Eちゃん、ネタと神様提供有難う!)