その声をほたるはよく知っていた。その穏やな声は、いつだって他者を慮る優しさに満ち溢れていた。明智の姫君であるほたるに対してもそれは同様だった。どんな時分に部屋を訪れても彼は微笑みを携えた唇で彼女を歓迎した。
 彼に逢いにゆくことは任務の一環だった。雇い主である光秀が織田軍の将たちと交流を深めるよう命じたから、彼だけでなく他の将たちの元へも満遍なく足を運んだ。豪胆な信長、真面目な蘭丸、軽薄な秀吉、繊細な家康。皆それぞれ才能に溢れた素晴らしい将たちであり、明智の姫君であるほたる、もとい桔梗姫に随分と優しく接してくれた。
 彼、信行もそうだった。兄である信長のような派手さはないけれど、言葉の端々に細やかな気配りを忍ばせ、機知に富んだ会話でほたるを楽しませてくれた。けれどふとした拍子に、ほたるは、彼がその優しい微笑みの裏に密やかな哀しみを秘めているのだと知ってしまった。
 もしあのとき、曼珠沙華を見つめてはらはらと花びらのように彼の頬を滑る涙を、もっときちんと掬い上げることが出来ていたならば。過ぎ去って終わってしまった過去を、光秀に飼われる忍でしかないほたるには到底叶うはずもない選択を、それでも振り返って悔やまずにはいられなかった。ましてや、彼をこの暗い水底へ突き落とした一連の策にほたる自身も加担していたというのに。

「……僕のことは、放っておいてくれないか」

 よく知った声で、静かに信行はそう言い放った。地下に作られたその部屋は暗く、高い位置に申し訳程度に作られた小窓から僅かに差し込む陽の光だけでは、彼が一体どのような表情をしているのかはわからなかった。
 蛍見の宴でふたごころを持っていることが露見し、そして本能寺での一件。あれ以来信行は安土城の地下にあるこの部屋に幽閉されている。信長が京から戻ってきても、死罪も島流しも言い渡されず、ただただ閉じ込められ続けていた。
「さぞお優しい貴方のことだ、情けをかけにきたんだろう」
「情けをかけに、など……私はただ、信行様のことが、」
心配で、と続くはずだったほたるの言葉を、信行が遮る。
「けれども貴方が本当に情け深いというのならば、――どうか、僕のことは、捨て置いてくれ、明智の姫君。それとも僕を嗤いに来たのか? ならばさっさと嗤って、そしてさっさと帰ってくれ」

 乞うでもなく、吐き捨てるでもなく、ただ呼吸をするような単調さで読み上げられた言葉は、何よりの拒絶に感ぜられた。
 すべて嘘だったのですか、という問いをほたるはすんでのところで飲み込んだ。嘘をつき欺いていたことが罪ならば、ほたるも同罪、若しくは信行よりもほたるの方が遥かに罪深かった。

「私、は………」

 無理矢理に言葉を捻り出そうとほたるは口を開いたが、偽りの気遣いすら形に出来ず、ただ吐息だけが唇を震わせるのみだった。
 今この瞬間も、汚れも戦いも知らない、明智家の無垢な妹姫を扮い続けているくせに、信行を騙しきることすら出来ない。なんて無様で無力なのだろうか。

「………失礼、致します」

 逢いに来るべきではなかった。来ては、いけなかった。
 城下で摘んだ青紫の花を懐に仕舞ったまま、ほたるはやっとそう告げ、信行に背を向けた。

 信行から返ってきたのは言葉ですらない、地下に溜まった淀む空気が動いたような、深く重たいため息だけだった。



ステイショナリー・フロント

(2013.11.27.)