携帯電話をとりあげ、部屋にはしっかりと鍵をかけた。一日一回、食べ物を与えに行くときにはどうしても鍵を外さなくてはいけないけれど、非力な彼女を取り逃がすようなことは有り得なかった。部屋の扉を改造して食べ物を受け渡せるギリギリのサイズの小さな戸を取り付けるのも、脱走の予防策の一つかもしれないが、それでは彼女がまるで囚人のようだし、死なないように食料を与えるということで一日に一度彼女の顔を見れる機会が生まれていたので、そういうことは考えなかった。
 彼女には指一本触れなかった。確かにあの白い肌や色素の薄い髪を目の当たりにするたび、滅茶苦茶に食べ散らかしたい衝動を覚えないわけではないのだけれど、焦ることはない。いつか淋しさに耐えきれなくなった彼女がこの手に落ちてくるのを待つのもそれはそれで楽しいじゃないか。粗末なマンションの一室は無力な少女を閉じ込めるには充分過ぎるほどだ。
 そう、無力な少女であったならば、それは永遠に閉じられた檻として機能したことだろう。

 いつもと同じようにスーパーで買いこんだ食料を入れたビニール袋を提げてその部屋を訪れた葵を出迎えたのは、開け放たれた窓から吹きこむ冬の冷たい風にあおられるカーテンだった。
 窓の前に揃えて置かれた靴を見た瞬間、彼はビニール袋を投げ捨て、窓へ駆け寄った。プリンのパッケージか、床に叩きつけられて、ぐしゃり、という無残な音。
 邪魔なカーテンを引きちぎるように開け放ち、窓から身を乗り出して地面を見た。綺麗に舗装されたコンクリートは無表情な他人たちが静かに行き交うばかり。遠く響く車のエンジン音や、楽しげに連れだって帰る小学生のはしゃぎ声は昨日までと何ら変わらず、彼女の欠片は何処にも見つからなかった。
「……っ、は、は、はは……!」
 乾いた笑い声が唇をついた。全身から力が抜け、尻餅をつくように後ろへ倒れ込んだ。
 逃げられた。逃げやがった。どうしてだろう、この檻は完璧だったはずなのに。この狭い世界にたった二人きり、いつか熟しすぎた果実が枝から落ちるように、彼女はこの手に落ちてくるはずだったのに。
「はは、ははは……っ!」
 それなのにどうしてこんなにも、清々と晴れやかで、いっそ笑い声すらあげているのだろうか。
「そんなに敦盛のことが好きなのかよ……」
 確かに、それなりに良い見た目をしているけれど、ただそれだけの、あんなにつまらない男を。贖うことの出来ない罪に生まれおちた時から呪われ続けている男をもしかして救うつもりでいるのだろうか。有り得ない。そんな女がいるはずがない。そんな、天使みたいな――、
「……ああ、そうか。なずな、お前は、天使だったんだな。そりゃ……しゃーねぇよなあ……。羽根があるんなら、窓があいてりゃ逃げられちゃうよなあ……」
 ただの無垢な少女だったなら、葵でも閉じ込めて独占出来ただろう。けれども天使さま、ああ、独り占めすることなど到底叶う筈もないではないか!
 だからといって惹かれずにいられる者などいるだろうか? こと、デート倶楽部で持て余した暇を消化している者たちはどうしたって彼女を求めてしまうに決まっている。神様に愛され、生きとし生けるもの全てを慈しみ、全ての罪を救済してくれるだろう存在に。どんな醜い想いも消し去って、しがらみも消し去って、広い青空へ連れて行ってくれる天使さま。しかし、それならば、
「なんで俺のことは愛してくれねえの……」
 冷え冷えとした風に吹きっ晒しになって、今にも凍りついてしまいそうな葵を放って、何処へ行ってしまったのだろう。皆を掬うための美しい羽根を、どうして葵には見せてくれなかったのだろう。
 色を失くした部屋で唯一温かな色を保っていた、彼女が脱ぎ棄てていった靴を抱き寄せてみても、そこには既にぬくもりなど一片も宿ってはおらず、ただ葵の掌を指すように冷え切っていた。



天使さまは僕に愛を教えてくれたのです

(2012.11.12)