愚か者の涙


 ぴぴぴ……と控えめに鳴く携帯電話のアラーム音で目を覚ました。夢を見ていたような気もするけれど、どんな夢だったのか思い出そうとすればするほどそれは遠くへ行ってしまっていて、携帯電話をひらいてアラームを止める頃にはそもそも夢を見ていたのかどうかも怪しく思えてきた。見ていたとしても結局その程度の夢だったんだろうと思うことにした。
 のろのろと布団から抜け出し、とりあえずカーテンを開ける。攻撃的に眩しい朝日に視界が白む。欠伸を1つしてからゆっくり眼を開けて、窓の向こうにある空を見上げる。
 大きく伸びをすると背骨が軋むのがわかった。深呼吸をして、ベッドをちらりと見る。しわがよった真っ白なシーツ、起き上がったときに跳ね除けたままの布団。買った当初は1人でこのベッドを使ってぐっすりと休んでいたはずなのに、今は1人で使うとどうにも広すぎて逆に落ち着けない。
 もう何年も、この部屋で目覚めた時にはあの人が居た。あの人の声で起こされて、擦りながら開けた目は穏やかな微笑みと眩しいくらいの朝日でいっぱいになった。そうしてその人は云う。おはようございます、響也、と。その、鼓膜をざわりとくすぐるような甘く穏やかな声で途端に脳は覚醒し、そうして挨拶を返すのだ。
「………………おはよ、アニキ」
 気がつけば誰にも届かない挨拶を口にしている自分がいた。なんて馬鹿なんだろう、と苦笑する。ああ感傷的。やばい、泣きそう。
 手のひらで口元を覆って、目を堅く閉じた。バイクのエンジン音と、子供のはしゃいだ笑い声が、さざなみのように遠くから聞こえてくるだけで、他に聞こえるのは強いてあげるならばたった1つ、自分の心音くらいだった。
 吐いた息が指の隙間から漏れた。朝から辛気臭いため息なんてつきたくないけれど、泣きそうな瞼の震えをどうにかして身体の外に出さないと本気で泣いてしまいそうだったので仕方が無い。起きたときに隣にあの人が居なくてすごく寂しかったからって朝から泣くなんて本当に馬鹿というか、そんなに子供ではないと思っていたけれどそうではないらしくて、とうとう限界に達した涙腺がぱちんと音を立てて弾けたかとおもうと、冗談みたいに透明な液体が、まだ未練たらしく顔の半分にしがみついていた左手を濡らした。
 1度零してしまったら抑えることが出来るわけもなく、もうどうにでもなれと部屋の真ん中でしゃがみこんで、床に涙で染みを作った。ぼたぼたとだらしなくとめどなく落ちていく音は、雨が地面を叩く音だとか、埃まみれで古びた大きなアルバムをめくる音だとか、そんなものに少しだけ似ていた。
 泣いたところでどうしようもないし、時間が巻き戻るわけでもないと知っている。ましてや、次に顔を上げたときに、あの人が困ったように微笑んでこちらを見ているわけもない。もうどうしようもないのだ。いい加減前を向かなければ。忘れることはまだ出来なくても、考えなくてもいいようにならなければならない。
 うっかり2人分のコーヒーを淹れてしまっただとか、家を出るときに誰もいない部屋にいってきますと言ってしまっただとか、帰りが遅くなってしまいそうになって携帯電話をとりだしてから連絡をする人がもういないことに気がついてしまっただとか、そんな毎日のどうでもいいようなことに過剰に反応してしまう自分がとてつもなく女々しくて大嫌いで、そのたびに気を緩めると泣きそうになるとか、本当に勘弁して欲しい、自分。
 もう今日は遅刻してやる、と腹をくくって、大袈裟に泣き出した。もうどうにでもなれ、どれだけ醜く泣き喚いても、この部屋には他に誰もいないんだから、誰にも情けないところを見られないで済むな、と自嘲してみたら余計に泣けてきた。
 小さい頃はよくこうやって泣いていたのに、最近はもう泣くことなんて忘れたみたいに振舞っていた。こんな風に泣いたのはいつ以来だろう。いつから、泣かないでも哀しみをやり過ごせるようになったんだろう。
「――、あー………もう…………っ」
 起きたまま整えていなかった前髪をぐしゃりと掴む。あの人と同じ、色素が極端に薄い、細い髪が響也の指先にキスするみたいに触れた。7年前から伸ばし始めて、気がついたらもうあの人と同じくらいの長さにまで伸びている。そのせいで、鏡を見るたびにあの人を思い出してしまうから、いっそ切ってしまおうかと思う。肌に残っているあの人のいろんな痕だとか熱だとかそういうモノも一緒に、この身体から切り離してしまいたい。涙とともに身体から押し流してやりたい。
 今でもこんなに好きだって云うことが、悔しい。あの人はもうきっと僕のことなんて見ていない、いいや最初から僕のことなんて見ていなかったんだ。
 どうして自分だけがこんな風にとりのこされて泣くような真似をしなければならないのだろう。過ごした時間の長さは同じだったはずなのに、その質量はこんなにも違ってしまっている。きっとあの人は僕を想って泣くなんて愚かなことをしてはくれないんだ。








(2008/04/01)