さよなら、昨日までの全部


 そういえば髪を切るための鋏っていうのがあったんだっけ、と気づいたのは響也の手の中の鋏が既に彼自身の髪を一房切り終えたあとだったので、今手にしている、紙を切るときだとかに使ういわゆる一般的な鋏のままで作業を続けることにした。鏡も見ないでいるからか、自分の髪を切り落としていくことへのためらいはほとんど感じられず、むしろ自分という存在が軽くなってゆくことは幸いに思えた。
 考えてみれば日本に戻ってきてからずっと伸ばし続けていることになる。道理でこんなに長くなるわけだ、と思わず苦笑。七年間というのは駆け抜けてみればあっという間のことだけれど、振り返ってみるとスタート地点は遥か遠くにあって、此処からではとても見ることができない。それなのに、切るのは一瞬だ。どれだけ積み上げてもどれだけ作り上げても壊れるのはほんの数秒、指を少し動かすだけでいいのだ。そうだとしたら、どうしてあの熱も欲望もなかったことにして別のなにかで塗りつぶしていくことができないままでいるんだろうか。
 しょきり、しょきり、と静かに鋏は与えられた役割をこなす。鋏の両の刃が触れ合うごとに真っ白なシーツにはらはらとこぼれおちていく金色の髪の上で、午後の柔らかい太陽がまあるい光の輪をつくって踊っている。その鮮やかな色は彼の大好きな兄の髪のそれと似たもの見えた。が、確かに陽の光をそのまま閉じ込めたような兄の髪は響也のものと似ていたけれど、響也にとってみれば霧人の髪はこんな薄っぺらい色とは比べようもないくらいにきれいだったのに、霧人はそうではないと言った。私は響也の髪のほうがきれいだと思いますよ、と。そんなことばっかり言う霧人は、毎晩のように響也の髪を甘く梳って緩やかに口づけをしてくれた。彼の指先の優しさも、唇の熱さも、未だ生々しく響也の内側に刻みつけられたままで、あの熱に焼き尽くされたいという欲望が霧人の熱で細胞が爛れてしまった髪を削ぎ落としてもなくなってくれない。それどころか髪を切り落としてゆけばゆくほどに、奥底に沈めたはずの、霧人に甘やかされた幾つもの思い出が浮かび上がってくる。
 結局、今でも好きなのだ。あの人が何をしていようと、どれだけ罪を重ねていようと。いっそ、髪を切るように手軽に、すべてをなかったことにすることができたら、どんなに楽だろう。あれだけ突き放されて、突き放しておいて、どうして好きだなんて想ってしまうんだろう。
 急に涙があふれそうになった響也は、持っていた鋏を投げるように捨てて、膝を抱えて背中をまるめて、泣くものかと唇を噛んだ。泣きたくなどなかった。泣いたらきっとまた思いだしてしまうだろう。幼いころから泣き虫だった響也をいつも霧人が宥めてくれたことを。泣いたとて、あやしてくれる愛しい人はもう、隣にいない。
 内側で暴れる感情を自分でなだめるために、響也はぎゅっと目をつぶって頭を抱えてうつむく。触れてみればはっきりと髪が短くなったのがわかった。これでいい、と響也は安心する。これで、もう、鏡を見るたびに霧人を思い出して泣かなくてもすむかもしれない。



(2008/05/04)