君恋し


 霧人のコートのポケットに潜んでいた携帯電話がぶるぶると小刻みに震えたのはもしかしたら着信を告げているのではなくて寒いせいなのではないかと思わせるほどに、今日は3月のカレンダーをめくるような時期にそぐわないくらいに気温が低い。 これから夜が更けると共に、きっとさらに気温も下がっていくのだろう。そう考えると、今日は早めに仕事を切り上げて帰路について正解だったかもしれない。
 たぶん後者は有り得ないだろうとポケットに手を入れ携帯電話を取り出す。手の中で小刻みに震えるその画面に表示されているのは“非通知”というそっけない文字だったが、ためらうことなく通話ボタンを押した。
「響也ですか?」
『え。……あ、うん』
ほどなく聞こえてきたのは、1日中テレビをつけっぱなしにしていれば少なくとも2回は耳にする、低くて甘く鼓膜に残る声だった。喧騒で賑わう雑踏を歩いているというのに、スピーカーから漏れる彼の言葉は滑り落ちることなく真っ直ぐに霧人に届いてくる。
『え、えっと、アニキ、今、どこにいる?』
「事務所の目の前の交差点で信号が変わるのを待っています」
『通りで事務所の灯りが消えてると思った』
「……………おまえ、今何処に居るんです?」
 今まで歩いてきた方を顧みた霧人は、ようやく青に変わった信号の足元まで伸びる白とアルファルト色で出来た横じまを踏みながら向こう側へ渡っていく人ごみの流れに逆らって歩き出した。
『どこにいると思う?』
謎掛けをするように笑った響也に、霧人はため息をついた。「今、見えました」
 事務所の前に居たのは、霧人に良く似ている色素の薄い髪をした男だった。事務所の窓を見上げながら、携帯電話を耳にあてている。思ったとおりの光景にまたため息が1つ。
「どうして此処に居るんですか?」
 ぴ、と一方的に霧人が通話終了のボタンを押すと、その男はびっくりしたように携帯電話を耳から離しつつ、霧人の方を向いた。顔を半分くらい隠していそうなサングラスをしていたが、そんなもので彼が彼であると認識できなくなるほどの仲ではない。目が合ったのがわかった、と思うと、彼の顔が一瞬にしてほころんだ。
「アニキ!」
 もしも彼に犬のような尻尾がついていたらきっとこれでもかというくらいにぱたぱたと左右に揺れていただろうと思わせるような満面の笑みで、響也が小走りで霧人のほうにやってくる。霧人は動かず、響也がこちらに駆け寄ってくるのをただ見ている。
「どうして此処に居るんですか」霧人は同じ質問を繰り返した。太陽に向かう向日葵のような、いっぱいの笑みを零す響也が、楽しそうに応える。
「ようやくレコーディングが終わったから、アニキに会いたくて」
「私の家に直接来ればいいでしょう?何のために鍵を渡してあると思っているんですか」
「だから、会いたかったんだって言ってるだろ」
 言いおわるが早いか、響也の両手が霧人に伸びた。霧人の胸に顔を押し付けるように、響也が抱きつく。ふ、と鼻を掠める懐かしい匂いは、響也が紛れもなく自分の弟であることを思い起こさせる。
 この先、何があろうと、決して変えることの出来ない絆。
 永遠に、誰であろうと、絶対に壊すことが出来ない関係。
「………往来でこういうことはしてはいけないと言ったでしょう」
「知ってる」
 振りほどこうと思えば振りほどけるし、いつもの霧人だったらそうしたはずなのに、何故か霧人の腕は響也の背中にまわされていた。指先に硬い背骨の感触。最後に会ったときと比べて、多少痩せたかもしれない。ここ何週間は普段に増して忙しかったのだろうし(そうでもなければ響也が何週間も霧人に電話をかけることすらしないなんて有り得ない)それくらいは当然なんだろう。
「…………下世話な噂が流れますよ」そういいながら霧人は片方の手で響也の髪を撫でる。
「ぼくがアニキのこと大好きだって?別にいいんじゃないかな、真実なんだし」
「私は遠慮したいですね。弁護士もイメージが大切ですから」
つまりそれでも抱きしめられていたいと思うくらいには響也が恋しかったんだということだけれど。
「非通知だったのにぼくからの電話だってわかっちゃうくらい、ぼくのこと好きなくせに」









(2008/04/04)