彼は冬の朝が嫌いだった。寝ている間に身体の体温を目いっぱいに吸い込んで、目覚めると別の生き物のような温もりで勝手に身体を包んでいる布団の温もりが大嫌いだった。あたかも自分以外の誰かの温度がまだ布団に残ってくれているかのようで、自分が独りではないのだという錯覚を覚えてしまうから。
 高い位置へ昇ることを諦めてしまったような低さの朝日が、無言でカーテンを突き破ってくる。独りきりの朝はとても静かだ。時計の秒針ですら押し黙ってしまった部屋では布団とシーツだけが擦れあってクスクスと笑い合い、夢から引きずり出されたばかりの彼の身体を忌々しいまでに穏やかで安らかで温もりで以って優しく抱きとめている。まるでいつかの、あのひとの隣で眠って、二人で夜を飛び越して迎えた朝のように。
 彼は引き裂かんばかりの勢いで布団を払いのけた。無遠慮な温もりが思い出の深海からあのひとの優しい声を引き上げてしまう。おはよう、という衒いのない低い声に鼓膜をぐわんと揺り返され、彼は逃げるようにベッドを抜けだす。おはよう。単なる朝の挨拶。それが、ただ眠りから覚醒しきらないうちに投げかけられるというだけで、これほどまでに愛おしく響くものだなんて、知るべきではなかった。
 しん、と凍りついた空気と、冷えきった廊下のフローリングに、しくしくと肌を刺され、彼の身体は外側からじわじわと冷えていく。
 彼はおもむろに立ち止まって、深呼吸をした。肺をちりちりと焦がす冷気に、溜まっていたぬるい暖気が押し出されていく。何度かの空気の入れ替えの後、やがて彼の身体の真ん中でくすぶる温度も抑えこまれ、彼は自分とそれ以外の境界線を段々と取り戻す。
 冷えきった彼の輪郭は強固だ。がっしりとした骨組みに支えられた彼の肉体は、生ぬるい温もりなど必要としていない。あのひとだって既に冷たい土のなか、腐食が進み分解されているそのからだはきっと今の彼と同じくらいにつめたいだろうから。

「……そうでしょう、先輩」

 洗面所に入った彼が鏡を見つめてそう問えば、鏡のなかのあのひとは鷹揚に笑い返した。



冷えた冬の水底で

(2013.11.25.)