2008.04.17!

 もう随分と長いこと、家族がいないことには慣れていた。
 慣れる、だなんて言い方はちょっとおかしいかもしれないけれど、でも実際そのとおりなんだから仕方がない。ただ、別に今までの生活や環境に対して大きな不満を持っていたわけでもなかった。時々寂しくなったりはするけれど。
「………………はぁ」
手に提げたビニール袋が思ったよりも重くて、きらきらとさわやかな朝の光が照り付ける町に似合わないため息が漏れた。
 ――本当にこれでいいのか。いや、でも、………でもなあ、
「………………はぁ」自問自答の末に出てきたのは、また、ため息。
 ぼんやりと何も考えずにただ足を進めていても辿り着けてしまうくらいには、あの事務所は自分にとって『内側』になった。悶々と別のことを考えながらでも気がづけば見慣れた通りをしっかりと歩く自分がいる。歩くたびにがさがさとビニール袋が音をたてた。
 本当ならば今も家で裁判に使うための資料を読み漁っているはずである。法介自身、つい30分前まではそうだと思っていた。みぬきからの電話を受けるまでは。
 電話でみぬきが5分くらいかけて法介に語った内容をかいつまむと、つまり、最近法介が忙しくてつまらない、とのこと。弁護士ってのは意外に忙しいんだよ、ともっともな言い訳をしてみせれば、みぬきの家――成歩堂芸能事務所、でも資料を読むくらいできるはずだ、と。そのほか、みぬきの父親である成歩堂が元・実力派弁護士であるからきっと裁判の準備の助けになる、だとか、たまには太陽の光を浴びないと光合成ができなくて健康に悪い、だとか、そういったたくさんをべらべらとまくしたてられ、気がついたらコンビニでみぬきにお土産としてプリンを買っていたのだった。
 これでいいんだろうか。もう一度自分に問いかける。
 法介はとりあえず社会人で、弁護士で、仕事もぼちぼちある。かつての師であった人の元に法介がいないことに大きく関係しているからなのか、成歩堂はたまに法介の面倒をみてくれてたりもする、が、成歩堂の事務所に所属していることになっているんだかいないんだかよくわからないし、毎回毎回面倒を見てくれるわけではなくて、どうしても本当に困ったときにそっと手を貸してくれるくらいのことだ。よって、この忙しい時期にあの事務所に『行かなければならない』理由はとくにないと思われる。
 しかしながら、お土産にといそいそと4つもプリンを買ってやや早歩きで事務所に向かっている自分がここにいるのも紛れもない事実。
(………別にやましいことなんかないはずだぞ………)
確かにここしばらく会っていない。とは言ってもほんの1週間ほどだ。しかも、意識して避けていたのではなく、単に時間がなかったというだけなのだ。こんな、罪悪感いっぱいで呼び出しに応じることはないんじゃないかと思う。――だが、こうやっていろんな理由を考えて列挙していくことが、まるでしどろもどろで言い訳を連ねているかのように思えてきていた。
 そもそも、みぬきと成歩堂は、自分にとってどういう存在と位置づければいいんだろう?知り合い、というには親しすぎるし、かといって友人というわけでもないし、ご近所さんというほど近くに住んでいるわけでもない。先輩と呼ぶほど成歩堂自身から何かをしっかりはっきりと教えてもらったわけでもないし、みぬきにいたってはまだ義務教育中なのだ、かなり年が離れている。
 2人と自分との関係を考えたときにきっと一番合うだろう単語を、確かに法介は知っていた。ある点において、無償の愛とも呼べるかもしれない。しかし、本当にその単語で彼らを表していいものか、法介は自信がなかった。
(…………でも、たぶん、いちばん近いのは、)
 そこまで考えた彼の思考を遮断したのは、無意識で押していたインターホンの、間抜けな音だった。春特有の、やわらかい匂いがけむる朝の冷たい空気に包まれた階段に、ぴーん、ぽーん………と調子外れの音が響く。家から事務所のドアの前に立ってインターホンを鳴らすまでの道のりがどうやら一連の動作として法介の筋肉にしみついているらしい。事務所に向かっているという感覚すらないままひたすら考えながらただ両足を交互に踏み出していっただけなのに、気がつけばこうして2人につながる扉の前で2人を待っている。
 結局、法介とみぬきと成歩堂というのはそういう関係なんだろう。何かを考えて一緒にいるわけではなくて、もう一緒にいるのが当たり前というレベルで、たとえば意識しなくても人間が心臓や腎臓や肝臓や胃を動かせるのと似ている。意識せずとも身体が勝手にそうやって動くし、そしてそれは生きていくのにかかせない行為なのだ。
「はいはーい、………って、オドロキさん!?」
「お、おはよう、みぬきちゃん」
 空いているほうの手で照れたように頭をかいた法介を、みぬきはぱちくりと目をしばたかせて見上げている。いつもの、遠くから見てもはっきりと彼女だと特定できる、あの特徴的なファッションではなく、緩く巻いたスカーフが可愛いセーラー服姿だった。そうして年相応の格好をしているのをみると、改めて彼女が15歳の少女だということを実感する。
「どうしたんですか!みぬき、今から学校行くんですけど……」
「ちょっ、呼んだのはみぬきちゃんでしょ!」
「よっ、呼びましたけど、でもみぬき、言いましたよ!“暇になってからでいいですから”って!」
 確かに彼女は言った。今すぐでなくていい、今かかわっている仕事が終わってからでもいいから、暇になったらすぐ遊びに来てくれ、と。しかし、受話器を置いたとき、ふと気付いてしまったのだ。
「――みぬきちゃんさ、どうしてあんな早い時間に電話くれたの?」法介は、ふっ、と微笑む。
「え、」
「普通、誰かにわざわざ朝のあんな早い時間に電話はしないでしょ。するなら午後とか、夕方のほうが一般的で」
「あ、それはその、オドロキさんが毎朝発声練習をして6時に家に帰ってくるって聞いてたから、その帰ってくる時間が一番いいかなって思ったんです。夕方だと逆に、その、依頼人の方との打ち合わせとかをしてるかなーって」
はにかむように笑ったみぬき。つられて法介も微笑んでしまう。
「みぬき?お客さん誰だったの、…………あ、オドロキくんか」
 みぬきの後ろで成歩堂がひょっこりと顔を出した。起き抜けなのだろう、生あくびを噛み殺している。うっすらと生えている不精ひげをなでながら、ふ、と微笑んで、言う。
「ずいぶんこっちに来てくれないから、みぬきがさみしがってたんだよ」
「そうですよーみぬき、さみしかったですよー。でも、パパもオドロキさんがいなくてつまらないってずーっと言ってたんですよ」
成歩堂が、あはは、と笑いながらみぬきのすぐ横に立った。
 法介は目の前に立つ2人を交互にみつめる。すると、急にさっき悩んでいたことがとてつもなく馬鹿らしく思えてきた。なんであんなことをぐるぐると考えていたんだろう。そんなこと、最初っからわかってたはずなのに。
 実際、さほどたくさんの歳月を2人を過ごしてきたというわけでもない。しかし、その長いとは表現できないけれど短くもない時間中ずっと、法介は笑顔でいたのだから。
 すぅ、と法介はゆっくり息を吸い込んだ。 大好きな家族への、“大好きだよ”と“ありがとう”を混ぜたとびきりの挨拶で、彼のよく響く声が、弾む。
「みぬきちゃん、成歩堂さん――、ただいま。お土産はプリンでよかったよね?」

(2008/04/17)
(成歩堂さんち事件参加作品)