一つになんかならなくていい

 柊、冗談はやめて、と言ったときの千尋の声は自分でも驚くほどにかすれていて、千尋はそれが自分の喉から出た音ではないような気がした。しかし柊は千尋の声をちっとも気にしていないようだった。むしろ彼女の言葉は彼の耳に届いていないような気配すらあった。千尋を組み敷くような形で見下ろしている柊の左目に宿っているのはそういう色だったのだ。
 柊の手が千尋の頬をざわりと撫でた。彼の皮膚の温度は黒い手袋の下に潜みきれずに千尋の肌の上でだらしなく広がる。
「ひいらぎ」
 初めて教わった言葉を口の中で練習する子供のようにその名前を呼ぶと、それに答えるように彼の目蓋が揺れて睫毛が震えたが、彼の唇はふるわされず、言葉での返事はもらえなかった。
 それからは時折彼がする瞬きだけが時間が止まってなどいない証拠だった。そうでもなければ千尋以外のすべてが時を止めてしまったかのようで、千尋は柊の瞬きから目をそらさずに繰り返される上下運動を見つめている。柊の目ばかりをこうしてじっと観察することは今までなく、きちんとそれだけを見つめてみると彼の目が眩しいくらいにきれいな色をしていることがよくわかった。誰とも違う、まっすぐな色。
「どうしたいの」
 びくり、と柊の肩が震えたのがわかった。
「………あなたに、………ふれたいのです、我が君」
絞り出すようにそう言った瞬間に、柊は苦しげに顔を歪めた。こんな風に苦しむ人を千尋は見たことがなかった。
 柊の目の前に千尋は居て、こんな風に簡単に組み敷かれているのだ、彼女の肌だってたやすく暴いて探り当てることが出来るだろうし、もっと言うならばさっきから柊の手は千尋の頬に触れたままなのだ。それなのにどうして柊は、まるで千尋がすでに死んでいて自分の願いは千尋の耳には届かないとでも云うような哀しみの痛みを飲み下せないでいるような顔で千尋を見下ろしているのだろうか。
「私は、此処にいるよ……?」
そんな当たり前のことを柊がちっともわかっていないようなそぶりでいることが千尋はいやだった。いつだって柊の言動は千尋にはわからない遠い何かを含んでいたけれど、今の柊は彼自身が遠くに感じられた。わかりあえたなんて傲慢なことは言えない、だけれど確かに時間を積み重ねて言葉だけではなく想いを交わしてきたと思っていたのに、何の前触れもなく千尋の存在も言葉も全てが柊に届かなくなってしまったようなことを言うのはやめてほしい。だって自分が存在しているという証はいつだって大切な他者がもたらしてくれるのだ。
「許されないと知っています、ですがどうしようも………どうしろと、いうのでしょうか」
「柊、」
「いっそあなたが優しくもなく美しくもなくお慕いする価値もない俗物であったらよかった」まるでうわ言のように柊が言葉を続ける。千尋に聞かせるためでもなく言葉にしたいわけでもなく、ただ唇をすべりおちてしまうかのように淡々とこぼれおちてくる言葉たち。
 柊、と千尋は何度も呼ぶ。しかし自分を気にかける者など誰もいないかのような柊の耳にはきっと千尋の声が届いてない。
「――っ、ひいらぎッ……!」
 千尋の頬に添えられた柊の手を加減せずに力の限り握り、叫ぶという表現ですら生易しく感じられるような甲高い声で千尋は叫んだ。はっ、と柊が息を呑むのがわかり――、
「……………我が君……?」そして千尋はしばらくぶりに柊が自分を見つめているのだという実感を覚えた。柊は自分が今千尋を前にしているのだと初めて気づいたかのような驚きを隠さずにいる。
 千尋の頬に添えられている柊の手に重ねている手はそのままで、もう片方の手をゆるりと伸ばした。蝶が舞いそして花をみつけて羽を休めるかのように、千尋の手は柊の頬に吸い寄せられた。
「………私は此処に、いるよ」
同じ言葉を口にしたけれど、今度は自分の言葉が彼の体内で響いているという感覚があった。
 柊の睫毛ってこんなに長かったんだとぼんやり気づく。日常と非日常の間にあるのは壁ではなくて薄い膜なのだと知ったのは豊葦原に戻ってきたときだった。その、日常と非日常の間をしきっているものよりはもっと堅固な壁一枚隔てたところでいつものように誰かが笑ったり考えたりしゃべったりしている。日常と非日常との差よりも、人と人の差のほうがもっとずっと厚くて壊せないのだ。どうやったら柊と私の間にある壁を壊せるんだろうと千尋は考える。そして、気づく。壊さなくても、いいんじゃないかと。だって、そう、同じものでないからこそ、私は柊のこと好きなんだから。そう、――ああ、私、柊のこと、好きだったんだ。柊が私を好いてくれてるのとおんなじくらいに。
「大丈夫、あなたの傍にいる」
だからこそ何が彼を許さないのか、どうしてそこまで柊が苦しんでいるのかわからない。千尋が柊を好きで柊も千尋を好きならそれでもう全部どうにかなる気がするのに。
「姫、」
「何をそんなに恐れているの」私は此処にいるのに、と千尋が笑んだ。
 柊の身体がふっ、と緩んで、そのまま千尋に覆いかぶさるように降りてくる。あ、と千尋が声をあげる前に彼女の身体は柊に抱きしめられていた。
 さっきいきなり押し倒されて組み敷かれたときに感じていた恐れはもう何処かへ消えていた。今の柊はこの先へ進む気がかけらもないことが、千尋の身体をゆるく抱きしめている彼の腕から伝わってくるからだ。この抱擁は二つを一つにしたいというものではなく、むしろ一つにならずとも二つのままでわかりあえることを確かめるためのものなのだ。
「………愛しています、我が君。誰よりも」
「ずいぶん前からそんなの知ってたよ」




(2008/08/20)