散りゆく花に目を伏せず

 目の前で薄紅色の花が風に吹かれている。
 千尋は太い木の幹にもたれかかるように膝を抱えて座り、抜けるような青空の中を舞う桜の花びらを眺めている。太陽の眩しさに目を細めるように瞳を閉じれば、ざっ……と風が吹く音が耳を低く揺らした。その風のなかに、ちひろ、と彼女を呼ぶ、息を吐くようなか細い声を聞いた気がした。
 桜の花が美しいのはその根元に屍体が埋まっているからだと誰かが言っていた。腐ってゆく死体が流す水晶のような液体を吸い上げて桜の花は美しく咲くのだ、と。
 ただ安穏と平和を貪って、守られていることにも気付かない暗愚だった頃、それは桜の蠱惑的な美しさに惑わされた者の戯言だと思っていた。なんて馬鹿馬鹿しい、全ての桜の下に死体が埋まっているのだとしたらどれだけ世の中に死人がいるというのだ、と那岐や風早たちと笑っていた気がする。
 しかし千尋の視界を横切って川の方へと落ちてゆく桜の花弁は確かに今まで千尋が見てきたどの桜よりも美しかった。例えるならば血に濡れた柔らかい唇が涙で滲んだような色をしているそれらは音もなく枝からはがれおち、ゆるりゆるりと風に乗って遠くへ行ってしまう。掴もうと手をのばしても指の隙間からするりと抜けて向こうへ行ってしまう。
 小さな子どもがするように膝を抱えていた手をほどき、そのままその指でそっと地面にふれた。冷たくて硬い地面は、もう千尋を抱きしめてくれなくなったあの人の身体に少しだけ似ていた。
「おしひとさん」
 もう返事をしてくれない人の名前を呼ぶことは報われないことかもしれない。でも、実際こうして口にしていないといつか名前の呼び方すら忘れてしまいそうな気がして、夜中に急に怖くなって何度も名前を呼ぶことがある。忍人さん、忍人さん。大丈夫、まだ覚えている。舌に馴染むその発音に、呼ぶたびに絞られているように痛む胸に、千尋はいつも安堵する。まだ私はあの人を愛している。大丈夫。例え桜が咲かなくなっても、この思いは散ってなどいかない。
 ひとしきり強い風が吹いて、桜の枝と千尋の瞼を乱暴に撫でた。桜の枝が、涙の様に花弁をこぼしていく。忍人の亡骸を糧にして笑むように咲く花が、今年も散っていく。




(2008/06/27)