こんな私を叱ってよ

 一切苦しまなかったかのように穏やかな表情はまるで眠っているかのようにも見えて、声をかけつづけたらいつか目を開けてくれるんじゃないかと錯覚してしまう。抱きとめる身体からは肌の熱も心臓の鼓動も聞こえてこないというのに。
「………忍人さん、」
千尋が呼んでも、千尋の腕の中に居る人は千尋の声に応えない。わかっているのに、声になってしまう。そうしなければ泣き叫んでしまいそうだった。
 黒い龍も倒したのに、中つ国の王にもなったのに、千尋は腕の中で冷たくなっていく忍人の身体に対してあまりにも無力だった。たくさんを救ってきた手から、たった1つがこぼれおちていく。1番守りたかったものが、1番守りたいときに、守れない。
 もう笑っていられると思った。これからはずっと一緒なのだと思っていた。
(だってついさっきまで笑って、私の名前を呼んで、)
 いつだって苦笑するように忍人は彼女の名前を呼んだ。照れくさそうに、でもいつもまっすぐに千尋のことを見て、しっかりとあの低い声で呼んでくれた。だから呼ばれるたびに千尋も少しだけ恥ずかしくて、でもそれ以上に幸せを感じた。その声が名前を呼んでくれなくなったらきっと千尋の世界は終わってしまうのだと本気で感じたくらいに、幸せだった。
 だけど、忍人はもう千尋の名前を呼んでくれない。それでも千尋の世界は終わってなんてくれない。
 やっと黒い龍を倒した。中つ国の王になった。これから、戦のない、皆が笑顔でいれる国をつくる。大丈夫、きっとなんだって出来る、だってこれからも隣にあなたがいてくれるって、
(まだ何も言ってないのに)
 たった1つの約束しか2人の間にはなくて、これからそれが減って、また増えていくんだろうと思っていた。2人でたくさんを増やしていけると疑いもなく信じていたけれど、それが愚かだったなんて誰が言える?だって、こんな結末、誰がわかっていたというんだろう。
「忍人さん、」
 どうか目を開けて。そして、王だって言うのにたった1人の死に、個人的な感情で涙を流す私を叱ってよ。




(2008/06/28)