ブルーグレイ・スカイブルー

 遠くから響くような声が千尋の耳たぶにやわらかく触れた気がした。仰いだ空の青さに軽い酩酊感を覚え、それは千尋の瞼の裏に焼きつき、眼を閉じてなお千尋の視界を一色に染め上げている。
 こうやって空を見上げるたびに思い出し、見上げなくとも呼吸の合間に思い返されるから、たぶん記憶のなかの忍人の、碧色をした天とよく似ていた瞳の色は千尋の心臓のまんなかに住みついてしまったんだろうと思う。だからその色は心臓の痛みをもたらすのだ。甘い疼きと確かなざらつき。後悔というにはあまりにも鮮烈すぎる欲情。誰も届かないモノを請うがゆえの幸福と不幸。完結してしまったものは時間の中で贅肉をそぎ落とす。相対的な質量が軽くなっていく過程を経たものは誰かのなかで穢すことのできない唯一のうつくしい青色を帯びる。淀みも濁りもない澄み渡ったスカイブルー。その中にいつもあるブルーグレイで揺れる冷たい炎は、忍人の瞳にいつも宿っていたそれに酷似している。
 その炎は冷たい冷たい色をしているから熱いなんて触れてみないとわからない。だから触れた瞬間に指先からすぐにその炎に焼かれてしまう。焼かれるまでその熱さがわからないからその熱さを知っているのは本当に一握りだけなのだ。
 自分がその一握りになれたことはこの上ない幸いであると感じる。あの熱を知らなければこんな痛みを知ることはなかっただろうけれど、数えるだけで泣きたいほどの幸福を感じる口付けの甘さも誰よりも温かな色をしていたあの笑みも知ることはできなかった。だから、それは千尋の根底でいつまでの幸いであり続けるのだろう。空が晴れ渡っていることが全ての人にとっての幸いであるのと同じように。
 涙を流せば体外へ流れ出てしまうだろう。誰かと口付けをすれば唇の端からこぼしてしまうだろう。言葉で紡ぎあげてしまえば色褪せて掠れてしまうだろう。故に千尋はそういった一切を拒絶する。もしも忍人が桜の花びらと一緒にその青を千尋の内側から吹き飛ばしてしまうことを遠くで望んでいるのだとしても。恋や愛というのはおそらくそういう、ある場所まで行き着いたらエゴイストの信じる幸福論に近い形をとってしまうらしい。
 言うなればそれは、何度人生をやりなおし、未来で永劫の別れが待っていると知っていたとしても、忍人に恋をすることをやめないだろうというような、途方もない祈りに似ていた。





(2008/07/12)