「姫」
「……リブ?」
 控え目なノックのあと聞こえてきた声が予想外のものだったので千尋はひどく驚き、小走りになって扉に駆け寄った。丁寧とは言えない所作で扉を開けるとそこにいたのはたしかに先ほど千尋が耳にした声の持ち主で、千尋は改めて驚く。そんな千尋を見て苦笑するリブ。
「や、驚かせてしまいましたか」
「ううん、あの、――ただびっくりしただけで、」
どちらの言葉も大して意味が違わないということに気づいたのは声に出してからだった。はは、とリブがまた苦笑する。
「あ、い、嫌だってわけじゃないから! でも、リブが私の部屋に来てくれるのって初めてじゃない? だから…」
「そうですね。突然訪ねてきてしまってすいません」軽く頷いてリブが微笑んだ。千尋もつられて安堵を隠しきれていない微笑みを浮かべ、「ううん! 初めてだから余計に嬉しい」
警戒感を欠片も見せずにリブを中へ招き入れる千尋を喜ぶべきなのかむしろ悲しんでいいのか判断しかねたリブは曖昧に笑い、彼女の部屋の中に足を踏み入れた。
 自分の部屋とはいえ千尋の私物はないに等しいため、部屋はこざっぱりというよりはむしろ殺風景だった。異世界からこちらへ戻ってくるときに何も持ってこれなかったし、豊葦原では気軽に趣味の買い物をするような生活ではないから当然といえば当然である。あまりじろじろ見るのは失礼かとも思いながらついつい部屋の中をぐるりと眺めつつ、リブはアシュヴィンの部屋を思い出していた。
「……それで、何か用事、だよね?」
 これといった理由もなく訪ねてくるほどリブと千尋は親しい間柄ではないと千尋は思っている。では実際、どんな関係なのかと尋ねられると答えに困る。リブが天鳥船にいるのは彼がアシュヴィンの臣下であるからに他ならず、つまり千尋にとって彼は"仲間の部下"にあたるのだろうけれど、その言葉が内包しているよそよそしさは当てはまらない気がするのだ。かといって"仲間"というのも何か違う気がするし、ましてや"友達"なんかではない。
「そうですね……」リブが困ったように曖昧な笑みを浮かべる。
「……やはり、帰ります」
「えっ!?」
 どうもお邪魔しました、と頭を下げてリブは本当に部屋を出ていこうとする。咄嗟に千尋は思いきり手を伸ばし――リブの服の裾を掴んだ。
「待って! あの、何か気にさわることをしたなら、謝るから!」
 折角部屋を訪ねに来てくれたのに何をするでもなく足を踏み入れてすぐさま帰ろうとするなんて、何か自分が彼の木を害してしまったのだろう、と千尋は必死で声をあげた。リブの機嫌を損ねてしまった、というのが何故だか酷く嫌だった。ああ、私はリブにいつものあの優しい微笑みをずっと向けていて欲しいのだ、とこんな時ながらふと気付く。
 振り返って一歩行ったところで千尋に裾を掴まれたリブは当然動くことが出来ず、しかもまるで懇願するようなセリフまで口にした。此処で出ていけるような人間が居たら全くお目にかかりたいものだとリブは思ったが、もしかしたらリブの主人であるアシュヴィンはそれでも出ていきかねないなとふと思った。そして、そんなことを考えることが出来るくらいには自分に余裕があることを確認する。
 す、っと意識して呼吸をする。そして千尋の方を振り向く。と、
「や、すいません。姫のせいではちっともないですよ」
「本当……? じゃあ、なんで………」
 上目遣いに恐る恐るといった感じでリブを見上げる千尋は、普段の勇ましさが欠片も感じられない、何処にでもいそうな少女の表情をしていた。そんな彼女が可愛くて、そしてそんな表情を自分に向けてくれていることがさらに愛おしくて、そっとリブは千尋の頭に手を伸ばした。形のいい彼女の頭を、ゆっくりと撫でる。
「実は、用事なんて何もないんです。それなのにあなたに会いに来たのがなんだか申し訳なくて」
「え、」
「あなたの顔がただ見たくなってしまって。気がついたら戸を叩いていました。すいません」
 本当はこんなことを言うつもりじゃなかったのに。たぶん、あんな可愛い顔を無防備にも見せた千尋にほだされてしまっているのだ。
 リブが何をどう感じていたとしても、千尋は豊葦原の大切な姫君。はじまることなどなにもないに決まっているのだ。それを理解しているくせして、こうして彼女に会いたいと触れたいと願ってしまう自分のなんと愚かなことだろうか。
「謝らないで」
 千尋が、嬉しくてたまらないとでもいったように微笑みをこぼした。
「すごくうれしい。ありがとう」

 ほら、そうやって笑うから。
 勘違いをしてしまいそうになるじゃないか。
 



はじまることなどない

(2010.02.07.)