催 花 雨 |
幼い頃、雨が好きな子供だった。 雲の灰色や、湿った土と草木の匂い、肌にまとわりつく風の温度だとかいう天や空気が教えてくれる雨の前触れを昔から人一倍敏感に感じとることが出来た。雨の前にはすべてのものが空から降り注ぐ水の恵みを今か今かと待ち望んでいるように見えて、人間だけが雨の声を聞けないのだなあと少しだけ寂しく思ったのを覚えている。私だって雨が来ることを草や木や花や雲に教えてもらっていたのだから。 雨が来るのを感じ取った朝は、傘を持っていくのが嫌だった。風早に持っていくように言われたのにわざと持っていくのを忘れたことも何度かあったけれど、その度に那岐がぶつくさ言いながらも傘を半分貸してくれたり場合によっては自分の傘を私に押し付けて一人濡れて帰ってしまったりするので、そのうち私もちゃんと傘を持つようになった。そうしていくうちにいつの間にか空を見上げたり、風の声を聞いたりすることを忘れていってしまって、高校にあがるころにはもう雨の気配を感じることもなくなってしまっていた。 どうしてあの頃、あんなにも雨を心地よく感じていたのだろう。今ではもうわからなくなってしまった。 「――如何かなされましたか、我が君」 柊が不意に私を呼んだ。その声を聞いて初めて、竹簡を読んでいたはずの私の目が窓の外をじっと見つめていたことに気がついた。 「………雨が降ってきたみたいなの」持っていた竹簡をテーブルに置いてしまってから私は答えた。 私と向かい合うように座っていた柊も窓のほうに目をやった。空にはうっすらと黄色みがかった薄墨色の雲が薄く垂れこめ、霧のような細かい雨を大地に落としている。 「おや、いつの間に」 「帰ってきたときにはあんなに晴れてたのに」 村の視察から戻ってきてからたぶん一時間と経っていない。建物の中に足を踏み入れる直前に見た空は澄んだ青色をしていたというのに今やその面影は何処にもなかった。 「忍人さんたち、大丈夫かなあ」忍人さんは橿原宮の東にある砦に行っている。風早や岩長姫、道臣さんも一緒だ。 私が王に即位する前に橿原宮のセキュリティをしっかりさせておきたいのだと言って、忍人さんは最近ずっと働き詰めだ。禍日神を倒してからも忍人さんの体調は万全とまではいかず、顔色もあまりよくないし、なんだかぼんやりとしていることが多い気がする。それでも、私の作る国が見たいのだと微笑まれては、身体が心配だから休んでくれとは強く言えなかった。 だけれど、今日の朝は、何故か、我慢が出来なかった。いつもより疲れた顔をしているように見えたからかもしれないし、ずっと二人で話が出来ていなかったからかもしれない。ずっとずっと働き詰めなんですから今日くらいは休んでください風早たちが行けば大丈夫でしょう、と、酷く駄々をこねてしまった。最後には風早と、私が村を視察しにいくのを警護するために砦に行かずに残る柊になだめすかされ、私はしぶしぶ忍人さんを見送った。 今思い返せば自分の言動の全部が子供っぽくて情けなくて、居ても立って居られないほど恥ずかしくなる。忍人さんにも呆れられてしまっただろうか。帰ってきたらちゃんと話をして、謝ろう。そんなことを考えていると、柊がわざとらしいほど大きなため息をついた。 「……目の前にいる私よりも、今は遠く手に届かず姫の願いも聞き入れない忍人をお思いだとは」 「すぐにそういうこと言うんだから!」顔が赤くなるのが自分でもわかった。くすり、と柊に笑われる。 「そのように可愛らしいお顔を私に見せてくださるのは至上の喜びなのですが………あまりにもあなたが可憐すぎて、魅入られた私はともすればあなたを閉じ込めて私だけのものにしてしまいたいという欲望に駆られてしまいそうになります」 「だからっ!からかうのはやめてってば!」 「からかってなどおりません、我が君。全て嘘偽りのない、私の心からの真実の言葉にございます。しかし、妬けますね。私の方が早く姫と出会ったというのに、今では姫の心は忍人のものだなんて」 「もう!」 何度言っても柊の言動が変わることがないのはわかっているし、私の反応を楽しむような仕草も見せているのだから、何も言わないで流してしまうのがいいのかもしれないけれどそんな対応は出来ずにいる。出会って一年近く経つというのにこの有様なのだから、きっとこれからもずっとこんな風に柊の大袈裟な言葉に振り回され続けるのだろう。 「…………一年、かあ……………」 一年前の私は葦原千尋であっても二ノ姫ではなかった。少しだけ家族構成が平凡でなかった以外は何処にでもいる女子高校生で、進学して就職して結婚して、というごくごくありふれた人生を歩むのだと思っていた。柊が、私を迎えに来るまでは。 「そうですね。あなたがこの豊葦原にいらっしゃってから、もうすぐ一年が経つ」 少しだけ微笑んで、柊が言った。ぽつりと私が漏らした言葉だけで私が何を考えていたのかを推測したらしい。ただの独り言のつもりだったのでちょっとだけ驚いたけれど、私はすぐに言葉を返した。 「一年しか経ってないんだなあ、って思うとちょっと不思議な気分なの。なんだか遠い昔のことみたいなんだ」 あの小さな家で風早と那岐と三人で暮らしていた日々は今もう遠い過去のような色をして心の奥底に沈んでいる。 「柊があの日私を迎えに来なかったら私は今でも豊葦原のことを知らないままだったのかな」 「いいえ、我が君はすでにこの国のことをご存じだったのですよ。ただ、思いだせずにいただけで」 「おんなじだよ」 私がそう言って苦笑すると、すっ……と柊の瞳が細くなった。静かに柊が口を開く。 「私が迎えに来なければよかったとお考えですか?」 「…………全く考えなかったわけじゃないよ」 あの世界に置いてきたものがないわけじゃない。例えば読みかけだった本だとか、予約して発売を楽しみにしていたCDだとか、くだらないことで笑い合った友だちだとか、映画見に行こうって約束だとか。 だけど、あの世界とこの国を天秤にかけることは出来ない。あの世界にはあの世界だからこその理由が、この国にはこの国だからこその理由がある。もし柊が迎えに来なかったら豊葦原で出会った全ての大切な人たちと出会うこともなかった。布都彦、遠夜、サザキ、カリガネ、アシュヴィン、リブ、夕霧、柊、――そして、忍人さん。 最初は何もわからなくて、怖くて、帰りたいと思ったこともある。でも、私の手でこの国を守れるなら、大好きな人の笑顔を守れるならば、それが今の私がやるべきことだと今は心から思う。 「でも、今は、豊葦原にいる大切な人の傍で、大切な人を守りたい」 真っ直ぐに柊を見据えて、そう言った。――刹那、柊の瞳から一切の感情が消えた。温度を感じさせないつめたい色をした目は私を見ているのに、何処か遠くに居る私を見つめているようだった。 「…………………我が君、」 柊の呼吸は鉛を吐き出しているかのように重かった。途切れ途切れに冷たそうな唇から零れおちるその言葉たちをかき消そうとするように、急に雨音が激しく鳴りだす。柊が急に表した痛みに混乱する頭の片隅で、ああ忍人さんは大丈夫だろうか、という憂いがぼんやりと生まれ、消えた。 「あなたは――どうして忍人の傍に居たいとお思いになるのですか」 いつも柊がまとっている捉えどころのない軽さみたいなものが欠片も感じられなかった。それがどこかへ消えてしまった代わりに、窺い知れないほどに重苦しい意志がそこにはあった。 「………私が忍人さんの傍に居たらいけないみたいな言い方をするのね」 柊は私の言葉に答えなかった。きっと柊は、私が彼の投げかけた問いに彼が納得いく返事をするまで、ずっとそうやって何も言わずにただ私を睨むように見つめ続けるのだろう。 柊の睫毛が微かに震えている。脅しつけるような、私が何か間違った言葉を口にしたらその瞬間に私をどうにかしてしまいそうな、そんな顔をしているというのに、睫毛だけがまるで何かに怯えているように揺れていた。 「…………………好き、だから」最初は少しだけ躊躇って、だけど最後ははっきりと言いきった。言葉にしたら、ああそのとおりなのだ、と妙に自分が納得した。再び、繰り返す。 「好きだから、傍に居たいの。ずっと笑っていて欲しくて、その笑顔を傍で見ていたくて、だから」 忍人さんの、光と水をいっぱいに受けた花のつぼみがほころぶような微笑みを思い出す。あの笑顔が見られるなら、私はそれだけで、しあわせなのだ。 「――もし、泣くことになっても、ですか」 「え?」 その時、私は黒い眼帯の下に潜んでいるはずの、青空が閉じ込められたような色をした柊の右目がそよいで、透明な雫が、ぽろ…と、こぼれたのを見た気がした。 「ひいら、ぎ?」 柊の瞳は私の方を向いているのに、彼が見ているのは私ではない気がした。目が、合わない。柊の空色の瞳には何が見えているんだろう? 降りしきる雨は少しも止む気配を見せない。ざわざわ…と、木々が不安そうに囁きを交わし合っている。 「あなたは、何を知っているの?」 柊の乾いた唇が、震えを隠すように、開いた。 next→ |