催 花 雨

 日暮れを過ぎて薄闇のカーテンに包まれても、依然として雨は降り続いていた。雨粒が屋根の上で踊っている音がする。
 私はようやく仕事を終え、湯浴みをして、自分の部屋に戻ってきていた。明日も視察に行ったり挨拶に行ったりしなければいけないのだからもう布団に入って少しでも長く睡眠をとったほうがいいのだろうけれど、忍人さんに会えていない。とても眠れる気分ではなかった。
 もちろん、未だ帰ってきていない忍人さんの体調への心配によるところもあった。しかし、一番の理由はそれではなく、今朝、ああやって癇癪を起こしてしまったことについて何も言わないままでいるのはいやだったことである。しかしどちらにせよ、今私が出来ることは、忍人さんが来るのを待ち続けることだけだった。
 そういえば、何もせずに仕事や国のことではなくたった一人のことをぼんやりと考えているなんて久しぶりかもしれない。天鳥船で旅をしていた頃はそれでもまだ自分の自由になる時間がそれなりにあったし、会いたい時に会いたい人に会いにいくことがもっとずっと簡単だった。女王になれば、国のため、民のための偉大なことは出来ても、自分の想いに正直に行動するだとか、大好きな人に抱きしめてもらうだとか、そういう小さなことが出来なくなってしまう。
 姉様も、こういう、どうしようもない不安でいっぱいだったのかもしれない。私の記憶にいる姉様はいつも綺麗に微笑んでいるのだけれど、私の知らないところでいっぱい泣いていたのかもしれない。龍神の許しが得られず、それでも羽張彦さんを愛した姉様。
 私は部屋の壁に立てかけてある天鹿児弓を持ちあげた。羽のように軽い弓は私が触れたところから温かくなっていく。
 あの嵐の日、姉様はこの弓を私に託して、そして二度と帰らなかった。帰れないかもしれないとわかっていたからこの弓を置いて行ったんだろう。そう、旅の先で死んでしまうかもしれないということを覚悟していた。それでも、それ以外には羽張彦さんと幸せになる未来を掴む方法がなかったから、姉様は橿原宮を出て行った。
 私よりもずっとずっと綺麗で優しくて大人だった姉様。それなのに気がつけば私はもうあのときの姉様の歳を追い越してしまった。
 もしも姉様と同じ状況に立ったら私はどうするだろうか。愛する人と幸せになるという本当にささやかででもひたすらな願いのためにはたくさんを犠牲にしなければいけない、なんて。
 欲張りな私はきっと全部を欲しがってしまうだろう。大好きな人との未来も、国の未来も、どちらかしか選べないなんてイヤだ。
 姉様もきっとそうだったんだ。国のことだけを思って羽張彦さんと別れることもしなくて、だからって国をまるごと放り捨てて羽張彦さんと逃げることもしなかった。姉様が選んだのは、両方を掴むために、立ち向かうこと。私も姉様のように両方を掴むために立ち向かうことが出来るんだろうか。
「………………忍人さん、」
 溜息と一緒に漏れた名前は、鳴りやまない雨音にかき消されずに、一人ぼっちの部屋に響いた。すると、私の声に返事をするかのようなタイミングで、ドアをノックする乾いた音が聞こえてきた。続いて、私の身の回りの世話をしてくれている采女の声。
「――姫様。葛城将軍が視察から戻られ、姫様にお目通りを望んでおりますが、いかがなされますか」
 私は深呼吸をした。雨に満たされた空気が咥内を過ぎて、胸に落ちていく。それから、采女に言葉を返した。
「通して」





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