催 花 雨

 千尋の前に姿を見せた忍人の髪や服は一見してわかるほどに濡れていた。おそらく雨のなか濡れて帰ってきたばかりなのだろう。太陽がいなくなってしまったのを寂しがっているのか、空を覆う雨雲は日が落ちてからますますその勢いを強めていた。
「忍人さん…………おかえり、なさい」今朝のことを謝らなければと思うあまりか、千尋の声は普段とは違いどこかぎこちないものになった。
「そんなに濡れて……何か身体を拭くもの、采女に持ってきてもらいましょうか?」
しかし忍人はそんな千尋を気にした様子もなく、ああ、と気の抜けた返事をしたっきり、足元を暗い顔で見つめて突っ立って何も言わない。彼の横顔に浮かんでいた色がなんだか千尋の胸に引っかかる。何処がどうとはっきり言えないけれどそこにあるのはたしかに違和感と呼んで差し支えないものを覚えた千尋は、「忍人さん…?」と小さく彼の名前を呼んだ。
 やっぱり忍人はどこかいつもと違っていた。千尋が問いかけているのに何にも反応を返してくれないなんて今までなかった。ましてや、千尋の目を見てもくれないなんて。
「――忍人さん………」
 千尋から視線をはずしたまま黙って立ちつくす忍人の青白い顔はひどく冷え切っていそうで、たいした考えもなくただ温めてあげなければという衝動にかられた千尋は忍人の頬にためらうことなく手を伸ばした。が、その手は忍人の肌に触れる前に、彼に振り払われた。
「えっ……………」振り払われると思ってなんて毛頭なかった千尋は彼に振り払われたことが信じられなかったが、それよりもその時忍人の横顔に貼りついていたのが信じられないほどの怯えと飢えであったことが千尋の思考回路を埋め尽くした。
 忍人は自分がしたことが信じられないとでも言ったように、千尋を振り払った自分の手のひらを愕然と見つめている。彼は暗い森に置き去りにされた迷子がするような、泣くことを思いつけないほどの恐怖に襲われているかのごとき恐怖で顔を歪めていた。しかし千尋の指先に触れた忍人の手の冷たさで頭がいっぱいの千尋は彼の表情に気付けない。いくつもの昼と夜を越えてたくさんの不安や恐れや幸せを分け合ってわかりあってきたはずだったのに。どうしても信じられなくて涙腺からこぼれそうになった涙を押し戻そうとした瞬間、ようやく自分の手が忍人に払いのけられたのだということを脳が認識した。
 忍人さんに、拒絶された。
 彼女の全細胞がそれを認識した途端、もう堪えることなんかできなくなった。せき止めていたものがあっけなく崩れ、千尋の瞳からはどしゃぶりの涙が降り始めた。
「そんなっ………そんなに怒んなくても、っ、いいじゃ、ないです、か…………ッ」
 忍人にこんな風に否定される理由なんて今朝のことしか思いつかなかった。ああやって忍人さんをひきとめてしまったことがそんなにいけなかったのか。確かに反省しているし大人気ない情けないことをしたとも思っている。だけれど忍人さんの身体のことがどうしても心配だったからの我儘だったのに、これでは忍人を心配することすらいけないことのようではないか。
「ど、どうして……っ…………私は、………私はっ………!」
その先は最早言葉にならなかった。泣いているばかりでは何も伝わらない、と千尋は乱暴に瞼をさすって涙をとめようとする。が、指がふき取る量よりも流れ出す量のほうが遥かに多くて、彼女の努力は意味をなさない。むきになってごしごしと目をこすり、必死で嗚咽を噛み殺す。無惨なまでに目の前の千尋の泣き顔は痛々しかった。
(………きっと、俺が死んだあと、君はこんな風に泣くんだろう)
 それは想像というよりも確信に近かった。近い未来に忍人がこの世に別れを告げさせられたとき、千尋はこうやって、まるで自らの肉体をかき毟るかのようにむせび泣くのだろう。
 自分の死を悼み嘆き悌涙してくれる人が居るということに対して、安堵する人間がいる。彼らは自分という人間の存在を喪失したことを悔いてくれるほど自分を愛してくれていた人がいるということを喜悦する。
 反対に、自分が死んだことに泣く存在があるということを憂う人間もいる。どれだけ故人がその人を愛していようと、幸せになってほしいと思っていようと、彼らは涙の雨に呼吸が出来なくなり、日常という抗えないものに、亡くした人を愛していれば愛した分だけ長い時間をかけてぬぐってもらわなければ乾くことがない。何故なら故人は彼らの涙を拭いてあげることが出来ないのだから。
 そして、忍人はまぎれもなく後者だった。
 忍人は自分がもうすぐ死の世界へ旅立つであろうということにはなんの恐れも感じなかった。何故なら彼らは言っていた。忍人の望む未来とともに死は美しき乙女の姿で忍人の元へと舞い降りる、と。だから、未練はちっとも感じない。彼女を守り、彼女のつくる国を見るという望みは果たされる。そこに自分の存在がなくたって。
 仕えるべき王も、守るべき国も、部下たちも失ったあの頃の自分が何よりも望んでいた未来だ。きっと、千尋の熱を知らなければ、笑顔で死ねただろう。あの、緩やかに指先に馴染み穏やかに微笑んでしなやかに肌で溶けて艶やかに沸騰し速やかに求めさせる彼女の熱といったら!
 あの熱に指先だけでも再び触れてしまったらきっと彼女を未来で酷く泣かせることになっても今という刹那忍人は欲望に突き動かされて彼女の内側にある熱を啜りつくしてしまうだろう。これも想像ではなく確信。
 だからもう二度と触れないと、涙のように忍人の身体に撃ちつける雨に誓ったはずだった。いまさら千尋は忍人とのことをなかったことになんかしてくれないだろう。忍人の中心に刻まれた彼女の熱の名残が薄れることはないだろう。だけれど、それ以上それが強くなることを防ぐことは出来る。彼女が忍人を愛していれば愛した分だけ長い時間をかけてぬぐってもらわなければ彼女がいつか流す涙が乾くことがないならば、忍人ができるのは彼女の涙の量をこれ以上増やさずにいることだけ。彼女の白い肌に触れなければ触れないだけ彼女はその心に涙を溜めこまなくて済む。
 そうして、唐突に伸びてきた彼女の熱を咄嗟に拒絶した結果が、これだ。結局忍人は余計に千尋に涙を流させているではないか。どうして彼女を泣かせたくないと思ってしたことすら彼女の涙を溢れさせてしまうのだろう。
 本当は彼女を抱きしめてあげたかった。ごめんと何回も囁いて自分の熱を分け与えて、彼女の目蓋に集まった冷たい涙を蒸発させてあげたかった。しかし今度抱きしめてしまえば結果的に未来で千尋が流す涙をさらに継ぎ足してしまうことになる。だが忍人は千尋の小さな身体を包みこむ以外に彼女が今流している涙を止める方法を知らない。そうして忍人の手は千尋へ伸ばされようとするのだけれど後の世に彼女が独りで慟哭することが頭を掠めて結局その手は空をつかむだけで終わる。しかれどもその手が千尋に触れない限り、目の前の少女の涙は止まらない。
「…………っ……ごめ、なさい………っ………ごめんなさ、い…っ」
 顔を覆った指の隙間からぽろりぽろりと零れおちている涙と一緒に彼女の声が滴り落ちる。それは自分のした過ちを詫びて許しを請う言葉。
「ごめ、………なっ……」
繰り返し繰り返し。何度も千尋はごめんなさいと言う。彼女を拒絶したのは忍人で彼女を泣かせているのも忍人だというのに。会いに来るべきではなかったのだろうか。否、会えないことで千尋は泣くとまではいかなくとも困惑し哀しむだろう。ならば、どうすれば?どうしたら?疑問符は頭の中で急速に質量を増し、やがて、脳内には収まりきれなくなって、弾けた。
「――どうして君が謝るんだ」ほとんど無意識に、ちょうど二酸化炭素を吐き出すように、忍人の口からあふれた。
「君を泣かせてしまっているのは俺なのに……………俺は、君を泣かせたくないのに、………君に幸せでいてほしいのに、」
「……………忍人さ、ん…?」
 好きだから泣かせたくない。根底にあるのは至ってシンプルなプリンシプルなのにそれがどうして上手くいかないんだろう。大切にするという言葉はとても優しく甘い響きで簡単に舌先を離れるのに、その行為のなんと難しいことか。
「…………私は、あなたが私のことを想ってくれている、それだけでしあわせですよ、忍人さん」
 千尋が顔を覆っていた手をどけて、忍人を見上げた。その瞬間、戻ってきてからずっと合わなかった二人の視線が重なった。深い水底のようにうつくしい忍人の瞳が自分を見ている――。泣くことも忘れて千尋は彼の青を見据えた。そこに言葉は要らなかった。呼吸すら声をひそめ、未だ降り続ける雨すら足音をたてないようにと勢いを弱めた。束の間、二人は世界で、世界は二人だった。
「――…………」
 忍人の手が千尋に伸びた。千尋の細くて長い指が無骨な忍人の手のひらをそっと包み込んで自分の頬へと持って行った。千尋のなだらかな頬には涙の痕がまだ残っていて、微かに熱かった。忍人の手の冷たさを楽しむように千尋が泣きすぎて腫れている瞼をそっと閉じた。彼女の手はまだ忍人の手に重ねられている。彼女の掌と頬に挟まれた忍人の手には両側からゆっくりと千尋の温度が染みてくる。じわり、じわり。
 忍人はもう片方の手で千尋の身体を抱き寄せた。彼の腕に千尋の華奢な身体を預け、千尋は静かに忍人に抱きとめられる。高らかに高ぶる互いの高鳴り。いつかは褪めるからこそ熱い鼓動。それでも今この場所に確かにそこに存在する、想い。思いださせられてしまえばもう最後。
「……………千尋」
 抱きしめて、名前を呼ぶ。たったそれだけ。
「………はい、忍人さん」
 言葉が返され、名前が呼ばれる。それだけ。それだけで、忍人の中に渦巻いていた暗いモノが一瞬で空気に消える。まるで最初からなかったかのように。若しくは、そんな不安なんて最初から存在しなかったのかもしれない。勝手に思い煩って勝手に苦しんで挙句の果てに一番大切だったものまで見失っていただけだということに気付かされただけで。
「………………ははは……」驟雨が通りすぎたあとの妙に青々と突き抜けた青空のように忍人が苦笑した。抱きしめている千尋の体温がゆるゆると忍人の身体を温めているのを感じて、ああこんなに自分の身体は冷え切っていたんだと気がつく。あの雨の中帰ってきたのだから当然といえば当然なのだが、それにすら気付けなかったということが何よりも自分が愚かである証拠。千尋が、忍人では思いつけないだろう答えを問いかけなくても与えてくれる強い人だと信じてあげられなかったという愚かさが恥ずかしい。
「千尋、俺は、君が好きだ」
 触れることを躊躇うのではなく、もうこれでもかというほど触れてしまおう。躊躇う暇がないほどタイムリミットは目前にあるのだから、行きつく暇も与えないほどに好きと口ずさもう。忍人がもう千尋に触れられなくなって千尋が泣いても、いつか思い出の煌めきが彼女を慰めて、やがて笑顔にしてくれるように。忍人がいなくなった後の千尋のために、少しでもたくさん彼女を愛してあげよう千尋のつくる新しい国を見ることも、一緒に桜を見に行くという約束を果たすこともできない彼が出来る唯一のことをしてあげよう。
「一生なんて言わない。俺は、死んでも、君を愛している」
「……そんな、死んでも、だなんて」くすり、と可愛らしく千尋が微笑んだ。目を閉じているのか、なんだか夢を見ているような笑い方だった。忍人は、重たく響かずしかし冗談だと千尋に思わせないように、言葉の震えを抑えながら口を開いた。
「死んだら言えなくなってしまうからな。生きている今、はっきり君に伝えておこうと思ったんだ」
「……そうですね。…………心配も、死んじゃったら、出来ないですから。だから、これからもたくさん心配しちゃうと思います、忍人さんのこと。だから、その、」
「わかっている。………今朝は、俺も悪かった」
「忍人さんは悪くないです!私が、心配しすぎちゃうだけで………」
「それだけ君が、俺のことを考えてくれているということだろう。むしろ、俺は礼を言わなくてはいけないな」
忍人が穏やかに微笑んだ。彼につられて、千尋も、大袈裟ですよ、と言いながら笑う。
ゆっくりと千尋の髪に唇を落とす忍人の背中に、未だ降り続く雨の声が聞こえてきた。夜の暗闇の中でうっすら透明に光る雨粒は、しなやかに地面に舞い降り、笑むように軽やかな音をたてて弾けた。





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