催 花 雨

「ああ、お帰りなさい、風早」
「ただいま」
 食事をとり終え自室へ戻ろうと廊下を歩き曲がり角を曲がったところで風早に出会った。ついさっき帰ってきたのだろう、彼の顔には若干の疲れが浮かんでいたし、全身が濡れたままだった。「災難でしたね。丁度雨に降られるなんて」
「うーん………まあ、そうでもなかったよ」顎に手をあてて苦笑する風早。「時には雨に降られて頭を冷やすのもいいことかもしれないな」
 持ってまわった風早の言い方に慣れている柊は彼が誰のことを話しているのかあっさりと勘付く。ああ、そういうことか、と柊も苦笑した。
 あの時、喉まで出かかった言葉を飲み込んで、本当によかった。柊は心の底からそう思った。彼が言っても千尋の想いを変えることはできないとわかってはいたが、ひたむきに幸せな未来を信じている千尋に何かを言ってあげたかったのは事実だった。忍人があの状態では、柊が見た未来で確定されてしまっていただろうから。しかし、あるいは。
「………この時期の雨は桜の開花を助ける、とも言いますしね」
「ああ、そうだね。――懐かしいな」
風早がそっと目を細めた。彼の顔には何か、愛おしい記憶に再びめぐり会ったような、そんな微笑みすら浮かんでいた。
「何か?」柊が尋ねると、風早は少し驚いたような顔をした。彼は柊に訊かれてようやく自分が過去を懐かしんでいたことに気付かされたのだった。それほどまでに風早が懐かしんでいた過去はあたかも実際に目の前で今起こっていることのような鮮やかさを持っていた。甘くやわらかい雨やしっとりと濡れる千尋の金色の髪は少し手を伸ばせば触れることが出来そうな気がした。全ては遠い過去の隙間に落ちてもう手が届かないモノだというのに。
「千尋がね、昔、雨が花が開くのを助けるんだって学校で習ってきたらしいんだけど、それをいたく気に入ったらしくて、」
――風早、雨って、すごいんだねえ。私も、咲けるかな?
「……それからしばらく、傘を差すのを嫌がったんですよ。雨に打たれていたらきっと咲けるんだ、って」
 子供の単なる思い込みと一蹴することも出来た。雨に濡れて風邪をひかれたら困る、とも思った。しかし風早にそう言って笑ったときの千尋の瞳が酷く――そう、まるで雨を連れてくる雲のような哀しい色をしていたから、風早は彼女を強く止めることが出来なかった。
 あの時千尋の記憶は封印されていた。しかし、あの小さかった身体の中に今まで体験してきたことが文字ではなく映像でもないひどく曖昧な形をとって焼き付いていたのだろう。彼女はきっと、咲きたかったのだ。散ってしまっても構わない、それでも咲いた一瞬、だれかにあいしてもらえれば。
「――ああ、ではそのおかげなのですね。あのように美しく咲き誇っていらっしゃるのは」
 柊が、そよ風にあおられて空を舞う花びらよりもやわらかく微笑んだ。風早はその花びらが幸運にも手の中に舞い降りてきたのを見つけたように嬉しそうに親友に答える。
「そうだね。――愛されて、綺麗に咲いてる」
 風早はそのとき、辺りに垂れこめる暗闇のなかで桜の花弁がぼうっと命を燃やすように白くひかっているのを見つけた気がした。





(了)