静謐な控室の真ん中に、パイプ椅子になんとなく腰掛けている彼女を見つけても、北斗はあまり驚かなかった。久方ぶりに向き合う白鍵と黒鍵の合間に彼女を想うことはなかったのだが、しかし、きっと鍵盤に触れる指先は自覚もないまま彼女の輪郭を繰り返しなぞっていたのだろう。数年ぶりの邂逅に懐かしさはなく、 そのこと自体も驚くべきことではないように感じられた。
 彼女は、簡易な折りたたみの長机の、ドアからちょうど対角線上の角に陣取り、楽譜を眺めていた。念のためにとプロデューサーが持って行くと言っていた予備のスコアだ。部屋に入ってきた北斗を一瞥すらせず、ひたすらに紙面を見つめる彼女の端正な顔は睨みつけるように歪んでいて、まるで綺麗な五線譜に嫉妬をしているようだと云うのは思い上がりだろうか、と、北斗はマフラーを外しながら自嘲のような嘆息を漏らした。そのままコートも脱いで、空っぽのハンガーラックの端にまとめてかける。下ろした鞄は、ラックの傍ら、壁に沿って部屋の一片を縁取るように置かれた椅子の上へ。軽さの割に大きさはそこそこある鞄のなかで、僅かにくたびれた楽譜はちゃんと北斗を待っていて、少しだけ安心した。音符の並びは一緒でも、書き込みという物理的な意味だけではなく、数週間の練習時間の跡が予備の楽譜にはない。
 北斗は恭しげに取り出した楽譜だけを持って、彼女の隣に座った。窓の外に降り積もる雪が無駄な音を飲み込んでしまった沈黙では、暖房が低く唸る声に邪魔されることなく、彼女の長い睫毛が瞬きで擦れる音が聞き取れそうな気がした。真っさらで清廉とした静寂は、足を踏み入れてしまうのが躊躇われる真新しい新雪のようだ。けれども明確な一音で静寂を打ち消すことなしに、美しいメロディを奏でることは出来ない。
「どうかな、」何気なく抱き寄せるように、彼女の右肩へ腕を回した。「その曲」
「わたしだけではわからない」
素っ気なく端的な言葉ですぐに返ってきたのは、甘い音の粒。北風に吹かれて冷え切った耳朶が包み込まれて、ゆっくりと解かれていく。温かな手触りの優しい温度。
 悪くない、と素直に思えた。
「今日のきみはとても優しい声だ。…………今の俺は、こんな音を出せるんだな」
 まるで穏やかな凪のような音色。北斗の手が今とは比べ物にならないくらいに色とりどりの音を響かせることが出来た頃には、こんな音を奏でることはなかった。おそらくは、肯定する気にもなれなかっただろう。こんな、陳腐で有り触れた、ぼやけた音では無意味だ、と吐き捨てたに違いない。
 他の楽器と違って、彼女たちは演奏者全てのものだ。誰の指であっても受け入れ、彼女たちは歌う。だから、ただの音符の羅列にはなんの意味も見出されないのだ。もっと鮮やかな色彩で、もっと確かな感情でもって、他の誰よりもうつくしく響かせなければ、雑音以上の何物にもならなかった。
 けれど今は違う。彼女のか細い糸の共鳴だけが自分の音の全てではない。北斗は彼女を歌わせるのではなく、彼女と共に、歌うのだ。
「早くエンジェルちゃんたちに俺たちの音を聞いてもらいたいな。本番が待ち遠しいよ」
ほころんだ北斗の唇の端から思わず微笑が漏れると、それを喜ぶように、ふっと彼女の横顔がゆるんだ。彼女の薄い唇も北斗のそれと同じような微笑に彩られる。
 ああ、彼女も、笑うのか。
 とても可憐な笑顔だ、と北斗は思った。賛美のフレーズがいくつも浮かんでくるが、褒め称えるよりも、その微笑みを眺めていたくて、楽譜を大事そうに長机の上へ戻す彼女の丁寧な仕草を、北斗は言葉もなくただ見つめた。が、そうやって自由になった彼女の指先が、彼女の肩を抱いていた北斗の手にそっと触れた瞬間、甘く褒めそやすための単語たちの一切が北斗の頭から吹き飛んだ。
「きみは、ーーーー」
 彼女の指先が、北斗の皮膚をなぞる。画用紙へ色を塗っていくように北斗の手の上で踊る指は温度がなく、しかし明確な意志を持っていた。どうやって色を重ねれば見せたい絵が描けるかを知っているように。偉大な名曲を、その端麗な音符の並びのなかに自分の指で探り当てた自分なりの解釈で、聞かせたい誰かのために奏でるように。
「…………腕が駄目になったときには、俺の音楽はもう終わりだって思ってたよ」
 高校生の頃、腕の腱が壊れた。そのときにもう自分の音楽も壊れてしまったと思った。音を亡くし、白と黒の区別もつかないグレーの世界で罰を受けるようにこのまま生き永らえ続けるのだろうという絶望だけがあった。それ以外には何もないと思っていた。
「でも、違ったんだな。音が壊れても、音楽は壊れない」
 この腕のなかに、彼女は今も在る。うつくしいままで。
 素直な子供のように頷いた彼女の、微笑みを携えたままの唇が紡いだ音は、言葉の形をとらなかった。聞こえるのは旋律だ。産まれたばかりの今日の太陽の光をまばゆく輝かせる凪の海のような旋律。温かい波に身をあずけるように目を閉じ、深呼吸。調べは北斗の胸に満ち、肺から身体の内を巡る。爪先へ、頭の天辺へ、そして両の手へ。いっぱいに満ち満ちた旋律は今にも指先から溢れてしまいそうだ。はやく、歌にしたい。翼に乗せれば、きっと遥か遠くの楽園にだってーー、
「ーーあ、控室あったかーい。て、あれ、北斗君だ」
「ここにいたのか、北斗」
勢い良くドアが開いた音がした、とほとんど同時に、弾んだ2つの声が北斗を呼んだ。目を開ければ、こちらへやってくる少年が、二人。
「あったけーけど濡れてるとこが気持ちわりい……」
「顔まで雪まみれになってたもんねー、冬馬君かわいそ」
「お前のせいだろ!」
「えー? 避けられない冬馬君のせいでしょ?」
まだらに色濃く見えるコートやマフラーを脱ぎながら、やいやいと言い合い続ける冬馬も翔太も等しく鼻先を赤く染めている。あの後も随分と雪合戦が続いたのだろう。風邪を引くといけないから早く着替えなければ、なんて話を北斗が去る直前にしていたのに。
(まあ、……もうしばらくやってるんだろうなとは思ったけど)
 翔太がちょっかいを出したことをきっかけにして雪合戦は始まった。冬馬もいつも通りすぐに熱くなるものだから、二人が帽子やイヤーマフから靴に至るまで雪まみれになるのに大した時間はかからなかった。傍らで見ているだけを決め込んでいた北斗にも時折雪玉は投げつけられ、いくつかは避けきれずマフラーやコートの肩を濡らした。一球でも投げ返していれば、おそらく北斗も同じように全身に雪を受けていただろう。もちろん、顔にも。
 悪意はおろか特段の理由もなく、互いに遠慮もなく、顔めがけて雪を投げあう。顔も商売道具であるアイドルの間で本来成立しない、普通の、ガキのじゃれ合い。全くのガキだった頃を振り返っても北斗はそうやってふざけあった覚えはなく、その手の遊びに興じるやかましい同級生たちを耳障りだと横目に素通りさえしていた。けれど、今はいつも賑やかな二人を微笑ましく眺めているし、時にはおふざけに加わってみたりもする。
「そういや、結局ピアノ見に行ってきたのか?」
「ああ、」北斗は隣の席に視線を戻した。真新しい楽譜を前にして、空っぽのパイプ椅子は最初からそうあったかのように押し黙っている。「……いや、わざわざ見に行く必要はなかったんだ。ーーとても綺麗だったよ」
「お、おう? よ、よくわかんねーけど、えっと、よかったな……?」
 北斗に気圧されたかのように共感を返した冬馬に、うん、と北斗は頷いてみせた。と、防寒具一式を脱いでハンガーにかけ終え身軽になった翔太が、はっきりと疑問符を浮かべている冬馬の顔を遮って隠すように、割って入ってくる。
「ね、北斗君もさ、ステージ見てないんだったら、」翔太は北斗を見て、それから冬馬を見て、「今からみんなで見に行こうよ」
「おっ、いいじゃねーか。リハまでまだまだ時間あるしな。北斗も行くだろ?」
翔太はくるりと振り向いて、冬馬は上半身を横に傾けて翔太の向こう側から、揃って北斗を見た。
 二人の瞳は形も色も違うが、とてもよく似た光を宿している。時に黒風に吹き上げられ揺らぐこともあったが、しかし、どんな瞬間もその光たちは壊れることなく、北斗の見る世界を極彩色に輝かせ続けた。消えることなく行く先を照らす、巡礼者が持つトーチのように。
「ーーそうだな、行こう」
 くたびれた楽譜だけを手にして、北斗が立ち上がる。






歌の翼に
(21.04.18.)