ああ俺は夢を見ているんだ、と承太郎は、目の前にある花京院の微笑みを見つめながら、思った。夢でなければ、幽霊との邂逅という奴だろうか。
「承太郎、誕生日おめでとう」
 過ぎ行く日々に毎日さよならとおはようを言う、身体の一部みたいに見慣れてしまった自室で、隣に座る存在だけが異質だった。
 少し曇った窓ガラスの向こう側で、空から落ちる淡い粉雪を静かに受け止めて白く染まっていく街が、帰路についた人々の足を急かす。それぞれの温かい家へと、背中を丸めて帰ってゆく。そうして街は段々と静寂に包まれていく。
 思い返してみると、誕生日には毎年、雪が降っている気がする。承太郎は空と雪が別たれる時期に生まれた。それは、暮れと正月の浮かれた気分が抜け、単調な日常を過ごすということを思い出す、そんな、なんということもない季節。雪が降っただけでもう大騒ぎになるような。
 控えめだが暖房を効かせているというのに、承太郎の唇が紡いだ言葉は、白い吐息を伴っているように響いた。
「………俺を責めたいのか」
「どうしてそういう話に飛躍するんだい」
 おめでとうって言ってるじゃないか、と愛しくて仕方がないとでもいうように花京院がからからと笑った。
 こんな夢を見るほど疲れているのだろうかと承太郎は自問自答する。確かに大学の入学試験は目前に迫っていて、その試験に合格するためにそれなりに勉強を続けているが、こんなリアルな白昼夢を見るほど追い詰められている実感がなかった。
 もう一度、花京院が言う。
「誕生日おめでとう、――承太郎」
 少し眉尻を下げて、目を細めて。記憶のなかに焼きついたものと寸分たがわない微笑が目の前で再現される。セピア色の思い出が掘り起こされ、吐息すら鮮やかに焼きなおし、遠い昔に鎮火した熱の燃え滓に火がつく。その熱は承太郎の心臓から瞬く間に燃え広がり、頭の天辺からつま先までが自分のものでないくらいに熱くなる。吸った酸素をすべてその焔が食らってしまっているせいで、肺に酸素が届かない。もっと酸素をと深く息を吸っても、吸った分だけ炎が爆ぜる。忘れようとして、結果、忘れたつもりでいた熱は、やっぱり身の内に未だ巣食っていた。なんて報われない、無駄な。
 ありがとう、なんて悪趣味な返事は出来なかった。もう歳をとることが叶わない人。同じ時間の流れを感じることがない人。承太郎は花京院を置いて年老いていく。承太郎のなかの花京院の姿は永遠に変化することがなく、そこにありつづける。単にそれが色褪せていくかそうでないかというだけの違いしかない。
「………そういうことを言われる資格がない」
 搾り出した声は思ったよりももっとずっと震えていた。寒くも無いのにみっともなく震えそうになる身体を抑えつける。辛いのは自分ではない。自分には哀しいと思う資格がない。
「どうしてそんなことを言うんだい?きみは、ぼくのことを好きでいてくれたじゃないか」
 確かに好きだったさ、と思う。それについては否定する気も起きないほどに、つよくつよく想っていた。
 あの季節が過ぎて、一人日常に返って、思い知らされた。あれを恋を呼ぶなら、なるほど、恋は確かにするものではなく落ちるものだった。落ちて、そうして溺れた。胸のうちで燃える熱で火照る頭では冷静な判断なんて出来るはずもなく、何も出来ないくせに何でも出来る気になって、時間に限りがあるなんて当たり前のことにも気づけず、努力することも忘れた。
 こうして、苛まれて、当然だ、と思える。それとも苛まれることで自分を赦してもらいたいという願望でもあるのだろうか。 だとしたらなんて愚かなんだろう。あれからちっとも成長していない。
 もしかしたら、そうなのかもしれない。あの遠い幻のような日々の幕が降りてから、過ごしてきたと思っていた時間は単にすぎていっただけだったのかもしれない。掴んで選び取っていったつもりで、握り締めた指の間から零れ落ちていただけだったのかもしれない。そうしてあれから流れた時間が偽者で、本当は今でもあの無力なままであったら、どんなにしあわせで愚かなのだろう。
「好きでいるだけで意味があるとでも?」
「好きでいることが無駄だというのかい」
「それだけでは価値が無かった」
「ぼくにとっては幸せだったよ」
「嘘をつけ」
 生きていればなんて残酷な言葉だしまるで花京院の死を軽く見ているようでイヤだけれど、あえてもし今も同じ時間の流れの中に居るとしたら、彼はもっとずっと穏やかで満ち足りた日々が約束されていた。出会うことが出来なかった人と安息の日々を共有したかもしれないし、承太郎がその役目を果たすことが出来たかもしれない。どちらにせよ――
「――結局俺は、お前の誕生日も知らない」
好きだった奴の誕生日も知らないような男が、手前の愛する奴を幸せに出来たなんて、そんな夢みたいな話、有り得ねぇだろ。





生まれ落ちた日



(2008/01/17)