一度落ちたら永遠に捕まったまんま。そんなことわかってた。もう逃げられない、否――逃げることなどするわけがない。あの方に忠誠を誓うとはそういうことなのだから。後悔なんてするはずがない。こちら側に居ることをむしろ誇るべきなのだ。わかっている。わかって、いる。

「……久しぶりじゃないか、我が愛しのスニベリー」

懐かしい呼ばれ方だ。あの頃の記憶が蘇ってくる。薄暗い地下牢。薬品の匂い。古い教室。かび臭い図書室にずらりと並んだ本。木漏れ日。笑い声。天井の高いホール。不自然に現れるドア。動く階段。談話室。寮のベッド。全ては自分の体験したことなのに怖いほどに不鮮明で、それなのに彼のあの表情を鮮烈に思い出せるのは、今、目の前にその彼が居るからなのか。

「なんだい無視かい?いつからそんなにエラくなったんだ?」

私は道にだらしなく座り込み塀にもたれかかってうつむいたまま上目使いで彼の姿を確認したあとは、微動だにしなかった。目をつぶると、腹のあたりから生暖かい液体がゆっくりと流れだしている、その消えていく温もりと冷えていく身体があんまりにもアンバランスだった。

「……あぁ、酷い出血だね」

彼は私の真正面にしゃがみ込んだ。黒いくしゃくしゃの髪、歪めたような微笑み、丸い眼鏡の奥に潜む狂気、ぼやけた記憶の輪郭をはっきりとさせる姿。

「……何故貴様が此処に居る、ポッター」

自分の声は酷く掠れていて、思っている以上に自分が傷ついているのだとわかった。彼――ジェームズ・ポッターの、そのなめつけるような視線が下へ動いて、私の質問には答えず、

「負けたの?」
「………黙れ…!」
「負けたんだ。あーぁ、帝王にお仕置きされちゃうよ?」

横っ腹に空いた穴に風が吹いて、それさえも痛い。身体の震えがとまらない。がたがたと唇が震える。痛みなんかではなく、最早、痺れと疼きと呼吸困難。杖を持てるだけの指の力はもう残ってはいない。
帝王――私の仕えるあの人は、容赦などない。酷使、殺戮、残虐、悲鳴、呪詛、血液。黒い世界。人を、殺して、殺されそうになって、殴って詰って蹴って潰して切って刻んで泣いて殺して、

「君みたいな臆病者には絶対に死喰い人なんて務まらないだろう?だいたい、僕にさえ勝てたことがないくせに。帝王の方も人材不足なのかな」

口を開けて罵声の言葉を投げ掛けようとして、しかしもうそれすらも出来ないくらいに、衰弱していたので、ただ私はポッターの顔を睨むだけだった。息が、あがってきた。 傷口を愉しそうに見ていたポッターが私の顔に視線をもどし、そして私の表情を見たとき、その顔から一切の感情を消した。喜びも怒りも哀しみも楽しさもなく、ただ冷たさを感じさせるだけ。

「その目は変わってないよね、本当。ただ蔑むだけっていうか、嘲るっていうか」

ポッターの顔が近づいた。鼻先が触れ合うほどの、距離。手がのびてきて顔にかかっていた髪をはらった。精一杯虚勢をはって何でもないふりをしてみようとはするものの、

「顔真っ青。唇、ガチガチいってるし。脂汗までにじんでるよ?」

そんなこと無理だった。視界が、ぼやけてきた。頭がくらくらする。心臓の音がやけに大きく聞こえる。

「僕に隠し事は無理だよ。ほら、君と僕の仲じゃないか、スニベリー」

あの頃はただ大嫌いだったその呼び方も、今は穏やかに優しい記憶を呼び起こさせる愛しい音だった。いつから、狂ってしまったんだろう、いつから。愛しい、還りたい、帰りたい。

「なんだよ、なんで泣くんだよ、お前」

涙が出た。言い訳もなにもない。ただ純粋に泣きたくなって、泣いた。

「ねぇ、僕が怖いの?それとも死ぬのが怖い?」

私は死ぬのだろうか。ポッターに看取られて、こんな世界の端っこでひっそりと。もしも天国と地獄があるならば間違いなく私は地獄行きだろうが、きっとこの世よりマシな世界に決まってる。自分で決めたはずの、もう手には負えない、リセット出来ない現状。死ぬことによってそれから逃れられるのなら。

「怖い……か。そんなこと…………このまま、死んだほうが楽だ」

私は顔を背けて、目を閉じた。視界は真っ暗になって、

「……君、死ぬの?」

それでも耳を震わすポッターの声。それは何故か母親のように優しい声音だった。

「………死ぬんだよ」

世界を捨てて、貴様を置いて、それなのに貴様の隣で死んでやるよ。嬉しいだろう?お前は私が大嫌いだったから。

「……怖くないのか、死ぬことは」
「……今は、だがな」

あぁ、死ぬことは怖いさ。だけど、きっと今死ねば独りでひっそり息をひきとることにはならない。例えその死を悼むことはないにしても、その場所に居てくれるから。きっと、いい意味でも悪い意味でも、ポッターは私のことを一生忘れることは出来なくなるから。

「……僕は君を見てきたって言ってるだろう?ずっと、ずっと」

何故この場所にこいつは居るのだろうそうだこの場所にこの世界の端のような場所に。そういえばポッターは、あの頃も、いつでも私が何処に居るのか知っている様子で、何処に居ても必ず見つけられて――

「なんでか、わかるか?さて、僕はなんであんなにも君と遊んであげていたんだろうな、『セブルス』」

私は目を開けてポッターの方を見た。そのハシバミ色の瞳に、ぼんやりと自分が写っていることさえもわかるくらいの距離に彼は居た。 ポッターは、笑っているような蔑んでいるような泣いているような嘲笑するような嬉しいような、そんな顔をしていた。

「怖い、って、そう言いさえすればいいのに……そしたら、」

ポッターはゆっくりと瞬きをして、それから不意に唇を重ねてきた。その温かさが、あんまりにも尊くて、優しくて、突然のことのはずなのにそれは今まで私が待ち望んでいたことのような、そんな錯覚にさえ、あぁ、死ぬ間際だからか?



一瞬とも永遠ともとれるだけのキスのあと、ポッターは口を開く。











    「  な ぁ 、 死 ん で や ろ う か 、 一 緒 に  」
            (「独りでなんて逝かせてやらないよ」)
























(友人:りんこちゃんに捧げます。だからリーマスを私に下さい。 2006/06/21)