のそり、と隣で誰かが動く気配に、千秋の意識は覚醒を余儀なくされる。カーテンをもろともせず差し込んでくる夏の太陽に視界がレンズフレアを起こして、反射的に身体を丸めてぎゅっと目を閉じた。
「あれ……? 起こしちゃったかな。ごめんね」
 少し掠れた気だるい声がして、それから誰かの手が千秋の額に触れた。汗で張り付いていた前髪を優しく掻きあげてくれたその長い指を千秋は知っていた。
「ん………」と、千秋は声がした方へのんびりと寝返りを打つ。彼はベッドの縁に腰掛け、上体をわずかに傾けて千秋の顔を覗き込んでいた。「おはよう、狛枝くん」
「うん、おはよう、七海さん」
 交わされるのは昨日までと変わらない挨拶。けれど、彼――狛枝の声に起こされるのは今朝が初めてだった。
 狛枝の背後に天井が見えるのは昨夜と同じだな、と千秋は思った。もっとも昨夜は光源らしい光源は窓の向こうの空高くに浮かぶ月だけだったので、彼の表情はほとんど見えなかったのだが。
「……そんなにじっと見つめられると、さすがに照れるな」
と、狛枝は苦笑しながら視線をふいに逸らした。照れる、と言ったのは冗談や誇張ではなかったらしい。
 なるほど、この状況はお互いに少し気恥かしくくすぐった甘いムードに浸かるべきなのだろう。確かにこれまで千秋やプレイしてきたギャルゲーや乙女ゲームでは、次の日の朝というのは面映ゆい幸せに満ち足りているものだった。
 しかし実際に二人で迎えてみた朝に、あのキャラクタたちのような胸の高鳴りや照れくささは何処にもなかった。全身が重たく疲れている感覚は、中断するタイミングが掴めなくて気がつけば一晩中ゲームをプレイしていた時のそれに似ていた。けれど、ゲームで完徹したときには決まって身体とアンバランスなほど頭が冴え渡っているのものなのだが、今は身体だけでなく頭も同様に疲弊していて、思考にはぼんやり霞がかっていた。あと二時間半くらいは寝ていたいと千秋は狛枝の方へ引っ張られてしまったブランケットを手繰り寄せ、肩まで潜って寝なおそうと目蓋を閉じた。
「ねえ、七海さん」
「うん」と、千秋は、目を閉じたままで言葉を返した。ぎい、とベッドが何かの重みで軋んだ音がしても、それからしばらく狛枝が言葉を続けようとしなくても、彼女は目蓋を開けなかった。しかし幾ら暗闇の中へ意識を沈めても優しい眠りは千秋を包んではくれなかった。回路がイカれてしまってボタンを連打してもコマンド入力を受け付けないみたいに、スイッチが切れない。
 それでも意地を張って目をつむり続けていたのだがやはり睡魔は影すら表わしてくれず、ならばいっそ一度完全に覚醒してから二度寝としゃれこんだ方が結果的には効率が良いかもしれないという可能性に気付いた千秋が、ぱちりと両目を開けると――、
「………狛枝くん、近いなあ」
 千秋の視界は狛枝で埋まっていた。彼はいつからそうしていたのだろうか、彼の長い髪の毛先は千秋の頬の一番高いところにほとんどつきかけていて、彼の瞳のなかの自分の姿を捉えることすら出来た。
 ニコリ、と狛枝が嗤う。
「どこも触れてないんだからむしろ遠い方なんじゃないかな」
「うーん、吐息を感じる距離っていうのは、遠いとは言わないと思うよ」
「吐息を感じる距離、ね」ふふ、と嘆息するように笑う狛枝。「なんだかトクベツな関係になったように錯覚しちゃう表現だね」
「……………」
 トクベツな関係ではない、とばっさり否定出来ないことを千秋は理解していた。なんでもないような二人は一枚のブランケットを共有しないし、あるいは共有することで“なんでもない”関係ではなくなる。そういう意味合いを持つ行為なのだということも千秋は理解していた。
「それでさ、わかった?」
「…………何が?」
 唐突な狛枝の問いに千秋が首をかしげると、狛枝はもったいぶったような苦笑いを浮かべ、
「セックスの意味、知りたかったんでしょう」
「…………ああ、うん。そうだったね」
「そうだったね、って。もしかして忘れてたの?」
「忘れてたわけじゃないよ」
 ただ、考える余裕がなかっただけだ。余裕がなかった? 自分がそんなにギリギリだったなんで気付いていなかった。しかしそもそもの行為の当初の目的を考えることなく、考えていないということに気付かなかったくらい、千秋は狛枝が与える熱の中で一体何を考えていたというのだろうか。
「……………よくわからなかった、と思うよ」
「そう、残念だね。やっぱりボクみたいなクズじゃ駄目なのかもしれないね。超高校級の七海さんに釣り合うのは超高校級の皆だけ、なんて、そりゃそうだよね。もしかしたら役に立てるかも、なんて身の程知らずにも出過ぎた真似をしちゃって、申し訳ないよ」
 淡々と、狛枝の唇からは自嘲の言葉が淀みなく紡がれる。彼がそうやって自分を卑下するのはいつものことだった。もちろんそれを快く思ったことなど一度もなかったが、何故だか今は普段以上に腹が立った。
「キミでいいんだけど」
「え?」
「っていうか、キミが、いい。それだけは、わかった」
 気持ちよさも恥ずかしさも切なさも愛おしさも一ビットたりともわかることは出来なかったけれど、この七時間ほどをざっと振り返ってみて、あれほど乱暴で無遠慮だった彼の腕をしかし拒絶したいと感じた瞬間はゼロだった。何がどうとか、だから何なのかは全く類推出来ないけれど、少なくとも嫌だと思ってはいないことだけは明白だった。
「………そう」
と、かすかに頷いた狛枝の口元は笑ってなどいなかった。その無機質な唇に触れたいという願望が思考をよぎったのは、彼が大抵いつだって笑っているような表情を浮かべているからだろうか。わからないことがまた一つ増えてしまったなあ、と千秋はぼんやり思った。




芽吹く距離
(13.03.25.)